じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

人類犬化計画

自分とか人生とかって、もっとどうでもいいことなのかも知れないね。


わたしは兎に角重い。なんでも真に受けるし永遠に考えるし真剣に取り組みすぎる。

それが良さだと思えている時は良いのだけど傍から見たらめんどくせぇだろうなあ、と一瞬でも思ってしまったらもう暫く立ち直れない。

自分がどうありたいか、が他者評価に繋がるとは限らない。自分の中の正義や主義、譲れない何かやそれらを守るための感情が目の前の誰かを責めてしまうことがある。

より良い人間でいたいのにそれを理解されない。そんなことはどうでもいいから機嫌よくしててくれよ、と思う人の方が多いのだ。わたしを好いてくれればくれるほど。

才能も人格も本当は接する人や時間や時代でくるくる変わる。いつでもどこでも発揮できるものなんて元来、人は持ち合わせていない。

けれどもそれを「いいや自分はこうだから」と決めて膝を笑震わせながらも仁王立ちしている一部の強靭な人を見てはああなれない自分に劣等感や罪悪感を覚えてしまう。

ただそこにいればいい、と言ってくれる人は中々いない。思っていないか思っていても言わない。けれど遍く全ての人がそう言われたがっている。言える人になりたいけれどなったらなったで受け取らない人に傷付けられたり実は自分が貰うために差し出しているだけだったりして次第に嘘になる。本当の承認と言うものは各々が自らの権利を勇気を持って信じる以外に得る方法が無い。

素敵なあの人の言う「私だったらこうする」を懸命に真似ても結果、素敵なあの人にはなれない。わたしは架空の「塩梅のいいわたし」にとって丁度いい「こうする」を模索し続けるしかない。
おんなじ行動でも博愛からしているのか時間の無駄だからしているのか他者目線でしているのかで意味が違う。意味が違うということは得るものが違うということだ。自分は何を得たいのかというよりも根本的に何を求めているのかを真っ直ぐに知る必要がある。思いの外、善人ほど嘘や建前を剥ぎ取る覚悟が中々できない。

だから

一つ一つ拘ったところで眉間のシワが増えるだけなんだ。今美味しい、今楽しいを信じて自分の頭の悪さを賛美するくらいが丁度いい。一周回っても二周回っても落ち着かなかった。3周回った今やっと「ワン!」と言えるような気がしている。