じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

個性、没個性

個性とか共同体意識って
『みんなと違う』わたしや
『みんなと同じ』わたしを
表現する事のように覚えて来たけど、



実は
わたしの中にある『みんなと同じ何か』や
みんなの中にある『わたしと同じ何か』を

探る先に芽生えるもののような気がしています。



みんなと同じ過ぎてつまらない、必要ない、より優れよう、注目されよう、でもあんまり目立たぬように。。。
『同じ』や『違い』といった相反する物のバランスを取ることが必要なのだと長年思っていました。でもそう捉えることで正解が分からず迷子になってしまうことがあるようです。

わたしたちはそもそもこれっぽっちも似ていない別々の生き物なのに、そばにいるばかりに全く同じ物ように感じる癖があります。『同じ』という強い基準があるから強い『違い』がうまれる。

『同じ』が当たり前だから『違い』に目が行き逸脱や孤立を感じてしまう。この考え方は限界があるような気がするのです。つまり、大切な個を潰しかねないと。


容姿を脇に置けばわたしたちは元々誰とも似てなんかいない。親でさえ違う。けれどわたしたち一人一人を構成している『元素』はそんなに多くない。そっくりなのは幻想で共通点はどこまで行ってもどんなに増えても共通『点』でしかない。



何に『同じ』を感じるかがそもそも違うのだから、

あの人のここはわたしだ
わたしのここはあの人だ

と気付いたときに芽生える気持ちが『わたし(個性)』を形作るのではないかと考えました。

共同体意識というのはこの事を感覚として知っている、ということなのだと思うのです。


善悪とか優劣とか便宜上は使うけれど、人という生き物はもっとグレーでいいのかも知れません。自然のものは全て近づいて見れば見るほどに地続きでグラデーションにできている様に思います。楽しい賢い美しさが個性なら、迷いも苦しみも愚かさもかけがえのない個性となぜ言えないのか。それらは表裏であって決して独立していないように思います。



世間一般で言われる個性は誇張しすぎているきらいがあります。みんなが幻想を追いかけて疲れ果て、何かの答えに依存して、そこから逃げるようにことさら特別を誇示する人はもはや平凡です。



ビジネスの畑では差別化が必要かも知れないけれど売るために捏造した個性はボロが出ます。本当は個性なんか無くてもいいのかも知れません。自分を含め誰とも戦わない、誰も責めない、奇をてらわない。そうした静寂(ゼロベース)の中で出てくる表現こそが言葉であれ行為であれ、光になるのだと今は思っています。