幸福についての考察③ 幸せになるために
幸福についての考察①②とリンクする内容です。
宗教、教育などを通じた生き方指南の多くは
・『秩序』を軸にすること
・社会的に有益な人材であること
・ルールを重んじること
・欠点を排除あるいは好転するよう努めること
➡「それによって愛される」
とするものと、
・『感情』を軸にすること
・他人の評価に依存しないこと
・自由にあるがままにいること
・自分にも他人にもそれを認めること
・善も悪も存在しえないことを知ること
➡「それによって周囲に愛が満ちる」
とするもの、の二極に還元される気がする。
そして昨今メンタルケアの分野が注目を受け急激に前者から後者へ価値観の移り変わりが起きているような印象がある。わたしは前者を「父(社会)的な教育」後者を「母(家庭)的な教育」と思っている。
古代、人々が共同体を形成する上で『秩序』やルールが生まれた。でもそれは人類の歴史全体で見たら実は期間限定的で物資の流通や金銭の概念が変革するこれからの世界はその枠組みが無くなって行く気がする。
よく考えると社会的通念よりも、ずっとずっと昔から人は存在していた。『感情』は生命の維持に必要な生理的欲求から派生している。人が生きる限りきっと変わらないし無くならない。生きやすい環境は心地よいし、生命維持に有益なものは美味しいし美しいし愛しい。そうでないものが不安や嫌悪を生むようにね。
『秩序』と『感情』どちらにフォーカスした方がより「幸福」を感じられるのかしら?
個人の中には昔から答えは出ていただろうけど、時代がそれを許可してこなかったのかも知れないね。
幸福についての考察②でも述べたのだけど、メディアデトックスのように現代人は
『IN』より『OUT』
『ON』より『OFF』
にフォーカスすることが大切に感じるの。
例えば、
『蓄える』よりも『シェアする』こと
『食べる』よりも『排出する』こと
『集中する』よりも『脱力する』こと
『管理する』よりも『手放す』こと
『思考する』よりも『体感する』こと
陰陽のバランスみたいに偏りを無くすことでより感覚がクリアになる気がする。
ここが鈍ってしまうと危険も幸福も感じられない。『感情』や『体感』だけは他人には分からないことだから。どんなに人が羨ましがっても、わたしが望んでいないことは「幸福」と呼べない。物事に触れた時に何を感じるかをしっかり掴めなければ自分の「理想」も「希望」もきっと存在し得ない。
メンタルやスピリチュアル、ビジネスの話でよく出てくるのだけど、
「レストランに入っても何も頼まない人の所には食べ物は来ない、それを分からずに他のテーブルを羨ましがっていてはいけないよ。」
という話。上手く行っている人はまずその結果を希望している。目的(幸福)を達成する前には頼む(希望する)ということを知らないといけない。でも前提として自分が何を食べたら幸せを感じるか知らないと目的は達成しない。
感情を大切に、
今していること
食べているもの
見ているもの
着ているもの
聴こえているもの
会っている人
に、何を感じているか。
より多くのデータを集積して出た答えがあなた独自の「幸せ」の形だと思う。
好きなものは何ですか?
と聞かれて一瞬思考が停止したり「例えば何のジャンル?」って聞き返しちゃう人はもっと丁寧に日常を感じてみるといいかも。
ちなみにわたしは先日、生まれて初めて「カツ」が好物って知りました(笑)。それまではね、「特にないです。」とか「なんでも好きだし食べられます。」って言ってたの。お菓子やフルーツは良く食べるけど・・・って。食べに行くこと全くないのだけど、自分とお話しする中で、「そういえばカツ食べた時上がるわ」って気付いた。本当に不思議。まだまだ知らない自分に出会えるかも。
おわり