じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

信じる と 疑う(コラム)

何かを信じる

何かを疑う

 

前提を変えれば対義語のこれらを両立することができる

 

 

これは本当だろうか、例外はないだろうか が「疑う」

もっといい方法はないだろうか、本当に悪は悪だろうか も「疑う」

命は有限だろうか、宗教は嘘だろうか も「疑う」

 

 

あなたは善人に違いない、絶対だ が「信じる」

これが最善に決まっている、あの人は悪者だ も「信じる」

命は有限だ、宗教はインチキだ も「信じる」

 

 

同一の意見であっても逆の立場から見たらどちらとも言える。余白がある分「疑う」のほうが賢く謙虚に思う。「信じる」ことは必ずしも美しく健全ではない。検証しようのないことを断言するのは危険だ。

宗教で言えば教義と感想と真実を混同してはいけない。盲目的になるからだ。盲目的になると他者との関わり合いの中で情報量と知識の差異を埋められなくなってしまう。人間という社会的な生物にとって断絶こそが最も忌むべき悪ではないかと思うのだ。心に留め置くことと他者への語り掛けは区別が必要に思う。個人的に西洋文化が乱暴に感じる要因の一つだ。

 

 

ここからは「信じる」について少し角度の違う話がしたい。

先に述べた「疑う」には防衛と真実の探求という力がある。「信じる」には確信から来る自信と貫く力がある。

 

けれど「信じる」にはもう一つ、顔がある。【完全なる包容】である。

 

対抗する価値観とは違う、冒頭に触れた両立の話である。

 

より崇高な「信じる」とは行為や存在としての悪を認めたうえで全てを引き受けると決意することだ。決して勝手にそうなる、自然と導かれるといったものではない。

愛する、と言い換えてもいい。経験がない人にとっては何一つはっきりと掴むことのできない「薄っぺらい」話に聞こえるかも知れないがどうか耳を傾けて欲しい。安くも易くもないけれど知ることが許されるなら知っていて欲しい。

 

ただ母親の愛を代替するように異性を求めることを愛と呼ぶのは社会的な悪だとわたしは思っている。与えられるだけ与えて時に命さえも捧げて相手のために「捨てさえすればいい」と思っている悲劇も同様だ。相手も自分も生きる力を妨げるものをわたしはいずれも愛とは呼べない。

 

 

価値のあるものも無いものも、そもそも価値を測る必要も無く、もしくは最低最悪のものである可能性を認めたうえで、もしくは最低最悪そのものと決めつけたのちに【それでも許容しましょう】と誓うのだ。

 

ここには「疑う」と「信じる」が共存する。陰と陽の中庸と言ってもいいかも知れない。

 

それでは損ではないか

こちらだけ傷つくじゃないか

捨てるのと何が違うのだ

 

 

損と思うならできないでしょう。傷つくという概念がもう価値を意識している。自分も大した存在じゃないのに。何も捨てていない。相手に期待しない上に相手の望みに沿うこともしない。

 

ここから先は「愛」の話になってしまうので今日はしない。けれど崇高な「信じる」は人も自分も世界も変える力を持っている。それは必ずしも各々にとって福音ではないかも知れないし厳しいことかも知れない。なぜそう言えるのか、それはわたし自身の個人的な体験に基づく感想だからだ。自分の世界が、目の前の複数人が「信じる」を通じて自信や生きる力を次々に取り戻して行った景色を今でも覚えている。この世に正しさがあるならたぶんあれがそうだろう、と今は思っている。

それはもう欲求不満ですよ(健全な話)

細々と生きています。わりかししょぼいです。

 

皆様はお元気ですか?

 

さて、表題のとおり執筆(?)から離れておりまして。でもSNSなんか書き始めると話がとっ散らかってキモオタ構文になっとるわけです。

 

そんなに長文書きたいならブログでやれ、と気が付きまして。

 

プライベートは心を押し潰したまま、まだ肩身の狭い思いをしています。なんにも進展してません。強いて言えば突然の転勤で事実上の別居が成立しそうです。辞令の証拠は無いので嘘かもしれません。あと、パートで収入が少し増えました。お金は大事。

 

それから、そういう『先輩』友達を増やすことができました。優しく背中を押してくれています。トロいなりにだんだん現実味を帯びた考えが出来るようになりました。

 

 

向き合えないことばかりと思っていたけど、鮮やかに解決することだけが"向き合う"では無いんですよね。なんというかはっきりとした意思表示が必要なんです。誰がケツを持つか、をいつでもわたしが決めるのは不自然です。いつでもわたしがケツを持つのも不自然です。そんな使命感でしなくていい損を沢山して来てしまった。実家のことも生き方も。

 


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(数年ぶりに伺った義実家のグロリオサ、地植えでびっくりした。)

 

いつでも幸せでいたいし幸せな人を見たい。不幸をチラつかせる人に説得力はない。そうは思うものの、透けて見えるくらいなら明け透けの方がいい気もしていて結果アイドル精神の無いわたしです。

 

 

今思い出したのだけど、どうにもわたし愛着障害が強いようですね。まぁ、思い返せば致し方ない気もしますが。

 

いつも"頑張って"人を愛そうとするんですよ。一見良い事なんだけど心は蝕まれるんです。なぜならホントは嫌だから笑 なんというか『生理的に嫌』というものが多すぎるんです。もちろんそうでもしないと社会生活が送れない(と、思っている)。

 

そのせいか分からないけど恋愛感情が欠如しているようです。既婚に恋愛もくそも無いんですが元々頑張って人を好きになる、という歴史でしたので。聴いた話によると恋愛ってそういうんじゃ無いらしいじゃないですか笑

 

そばにいて友達として心地が良くてお互いが信頼して色んなことを任せられる様になったらパートナーとして名乗っても良いのかな?と思うのだけどみんなそこをすっ飛ばして来ますでしょ?そこまでの関係性が築けていないのに告白してくるとか普通に1mmも理解できないので見下してしまうんです。けれど完全に拒否するということの方が『失礼にあたる』と思ってしまって何人かお付き合いして来ました。好きじゃ無くても良いとか一番じゃ無くても良いとか言う人もいたのです(いずれも結婚前ね、後は一切ないですよ)。

 

なんというか、そんなにすぐに好きになるっていうことは相手を浅く見過ぎだし頭が悪い証拠の気がするんです。お付き合いしておいて「やっぱり違う」とか「〇〇が嫌」とか言うの馬鹿すぎませんか?そんな程度も看過できない相手や覚悟でなんで付き合うんだろう???と疑問なんです。それが恋だよ、と言われたら太刀打ちができないわけです。分からないから。

 

わたしの場合、そもそもがゼロベースだから嫌いになりようが無いんです。と、いうか告白してきた時点で元々嫌いなんです。一緒にいること自体が不都合だから頑張らなければいけないし頑張り続けてしまう。で、好きにならなくてはと自己洗脳しているから気が付くとボロボロになっているという。人に寄りたいという願望があるんでしょうね。苦しんだり泣いていても幸せになる気は多分無いのです。なってはいけない、なれるわけがない・・・今思い出したけれど姉からの長年の声掛けがまさにこれでした。

 

ちゃんと好きで選んだものならどんな結果でも清々しいのかも知れません。気が変わることもお互いに許せるでしょう。そうならないならばそれは幼児的な執着なんです。

なんというか恋愛している人達ってあれがダメ、これをして、と母親の代わりをさせているように見えませんか?それ家の外でやることじゃないもの。

 

 

ま、今となっては関係のない話ですけどできることなら自分の思う理想の恋愛をしてみたいというのは誰しも永遠のドリームなんじゃ無いでしょうか。しばらくは考えられないけれども。

 


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・・・大丈夫、ちゃんとご無沙汰です。

(タイトル回収するな)

妄想意訳 映画【エゴイスト】

映画 エゴイストを観ました。

https://egoist-movie.com/index_sp.php

 

 

これはゲイの映画でも恋愛映画でもありません。


ひとりの

男気ある

純粋な

青年の

   

愛の物語です。


   

難解な考察が必要な従来の映画的演出ではなく昨今のアニメ作品に見られるような優しく子供でも分かりやすい表現が散りばめられておりセックスシーンを除けば家族で観たい映画です。


人気の美しい俳優達の組んず解れつが話題にはなっているものの本質はそこではありません。

なぜあれほどまでに作品で身体を見せつけたのか、それは『上辺だけを掬うような生易しい覚悟でこの作品に挑んではいない』という制作陣からの言わば"戦いの狼煙"に見えました。


それらは作品のかなり前半で繰り広げられ、展開の速さに振り落とされそうになりながらも中盤を過ぎてその意図が分かりました。冒頭で述べた通り描きたいのは"そこ"ではないのです。

   

ストーリー展開は予告編通りある程度予想のつくものではありましたが俳優たちのちょっとした仕草や演技でグッと内面へ引き込まれます。

   

性的マイノリティーと言われるけれど各々の世界観は十人十色です。それは異性愛者でも変わりません。ただ、どうしても世間には出せない分かってもらいにくい感情というものはあるようです。昔からそういった文化に興味があるわたしだから感情移入できた部分ももしかしたらあるかも知れませんね。親や友人に打ち明けられない、恋人が出来ても法的な関係が結べない、パートナーが入院手術になっても同意書一つ書くことが出来ない、運が悪ければ面会も出来ない、生涯のパートナーと決めていても財産を残せない。。。そういった不便さを抱えながら今日もお互いを想い合う人達がいます。

   

   

エゴイスト、とは利己主義と訳されます。

自分本位な振る舞いをする人をそう呼びます。

この作品の誰の、何が、エゴイストなのか。ラストシーンで分かります。わたしもあんな美しいエゴイスト達になりたい。


   

同性愛に嫌悪がある方にはオススメしないけれど、どこまでも透き通った映画でした。

雑記

悲しみとか苦しみとかじゃない

明確な恨み

具体的な被害
   
囚われて胸を病んで

でも自分の力ではどうすることもできなくて
美味しいものを食べても気付くと思い出して
世界が憎たらしくて
他人が羨ましくて
    
だけど
   
紐解くと
弱すぎる自分への憤りなのだと知る
   
嫌なことは確かにあった
相手に悪意があっても無くても
自分に否が無くても優しさ故の判断でも
沢山損をした
自分だけが傷付いた
簡単に取り戻せない
もう取り戻せないかも知れない
   
それでも死を選ぶことができない
まだ生きていたい、もっと生きていたい
自分を傷付けても相手を傷付けても
何も得しない、何も変えられない
   
弱いから「いけないんだ」と思うと
もう立つ瀬がないけれど
原因はやっぱり弱いからなんだ

強くなろうと思うと
今度は自分が他人の弱さを許せなくなる
知らない間に言葉の端々に”あの人達”が宿ってしまう
   
弱いことは悪いことですか?
弱いままではだめですか?
このまんま
風で涙を乾かしながら
生きていこうと思います

それって金になるの?

楽しさ、という飴はお金にしようと思った途端に味が変わってしまう。そんなふうに思ったこと無いですか。


趣味を仕事に!とかやりたいことで稼ぐ!とか魅力的だけれど、どうもみんながみんな上手くいくわけじゃないようです。あれ、何なんでしょうね。やれば儲かると分かっている時でさえ何だかトーンダウンしてしまう、あれ。


わたしは「からだ」に必要なものと「こころ」に必要なものは全く違うからかも知れないな、と感じています。



衣食住は別として、現代社会でお金は生命の維持に関わるのでお金になるものは「からだ」のためのものなんだと思うのです。掃除、料理、家庭菜園、演奏などなど本人は楽しんでいるけれど立派に収入を生んでいるものは「からだ」のためのもの。賞金やギャラの出ないスポーツ、芸術、遊び、手芸、お笑いなどは「こころ」のためのもの。お金になった(ならなくなった)時点で効力が無くなってしまうんじゃないですかね。


「こころ」のためになるものは自分以外の人にとってはあんまり意味のないもので、そんなことやってなんになるの?というものほど良いと何かで読みました。



わたしは普段服や小物の繕い物を良くやるので常々平気で裁縫できないと言う人を見ると九九ができない人くらいしょうもないなぁと思っていました。けれどそういうわたしは正直九九あやしいです笑。どちらもできるに越したことはないけれど普段「そんなもんだろう」「当たり前だろう」と思うことを冷静になって見ると人によって意味や重要度が全然違いますよね(絶対に九九のが大事笑)。人から見てではなく自分にとってどうなのか、という視点も大切に思います。わたしにとっての当たり前も誰かにとってはリフレッシュになりえるのです。



生きる意味がわからなくなってしまう時、人生にいわゆる無駄がなさすぎなのかも知れませんね。

もし、あなたが危ないなと思ったら20分くらいかけてひたすらノートに○(マル)でも書き続けるといいと思います。なんだこれ?と思えたら多分スッキリするんです。なんとなくスマホで暇つぶしをするより意識して取り組む分「さあ、今俺は自分の人生を見事に無駄にしてやったぞ!」という自信になるはずです。こういう積み重ねが【自己決定感】になります。くだらないようだけどなんとなく自信が持てない時って仕事や時間に振り回されて自分で自分の行動を決められてないのです。それを取り戻すのです。


そういうちょっとした無駄が日常にないといつか人生自体を無駄に感じてしまうのでしょう。義務や成果ばっかり求めているとなんとなく夜眠れなかったり集中できなくて結果的に無駄な時間を過ごしてしまいます。これのも自動的にわたしたちの「こころ」が無駄を求めている仕業かも知れませんね。無駄は偉大なガス抜きってわけです。



そう、例えば誰にも見せない日におしゃれな下着を着るのも楽しいです。比べて安物の服なんかだとおかしくてなおいいです。写真を一枚も撮らないと決めて一人キャンプ。で、せっかく火を起こした横でコンビニのご飯を食べちゃうとか考えただけでワクワクしませんか。



バカみたいだけど、何か目的や意味のあることで満たされた先にあるのはいつだって新たな渇きじゃないですか。なんかそういうのはもう疲れちゃったし、あんまり要らないのかなと。



服、靴、鞄、家、持ってるものの値段だけがつり上がって行くことが「格」ではないのに何となくそう思ってしまいませんか。スーパーカーでグッチに乗り付ける人とも喋ってみたいし近所の公園で野点(アウトドア茶道)してる人がいたらそっちとも喋ってみたい。でもそのことを誰にも話しちゃいけないのならどっちが楽しそうですかね。ふとした時に、自慢になるか映えるかといった他者目線が混ざってくるんです。無自覚に今していることの目的を探してしまう。



わたしたちは、より多くの富を持ちそれを分配できる人を立派な人だと思わされてきたけれどなにもお金だけがわたしたちに必要な富じゃないのですよね。真っ当な無駄を他者へ提供できる人って素晴らしいんじゃないですか。そういう「格」があってもいい。



そういえば志村けんさんもお笑いというある意味「無駄」なものを徹底したからこそ愛されたし偉大でしたよね。彼は先輩であるいかりや長介さんが亡くなった事をきっかけにいろんな番組に出るようになりましたがそれまではあえてバラエティ番組もお芝居も避けていたそうです。能力や学のあるタレントは面白いけれどコメディアンが同じことをしてしまったら視聴者にもう二度と「あいつはバカだなあ」とは笑って貰えなくなる、という持論のためだったそうです。

ビジネス→副業→スキルアップなど常に「結果」を求めるような風潮があるけれど、これからのわたしたちに求められるのはむしろ彼のようなバランス感覚のように思ったりします。

(彼は仕事になっていますが)何かって言うと「お金になるの?」って言われがちだからつい、自分もいけないことのように思うけれどお金にならない、しない、理解されないことを真剣にやるのって実はとっても裕福なんですよね。

個性、没個性

個性とか共同体意識って
『みんなと違う』わたしや
『みんなと同じ』わたしを
表現する事のように覚えて来たけど、



実は
わたしの中にある『みんなと同じ何か』や
みんなの中にある『わたしと同じ何か』を

探る先に芽生えるもののような気がしています。



みんなと同じ過ぎてつまらない、必要ない、より優れよう、注目されよう、でもあんまり目立たぬように。。。
『同じ』や『違い』といった相反する物のバランスを取ることが必要なのだと長年思っていました。でもそう捉えることで正解が分からず迷子になってしまうことがあるようです。

わたしたちはそもそもこれっぽっちも似ていない別々の生き物なのに、そばにいるばかりに全く同じ物ように感じる癖があります。『同じ』という強い基準があるから強い『違い』がうまれる。

『同じ』が当たり前だから『違い』に目が行き逸脱や孤立を感じてしまう。この考え方は限界があるような気がするのです。つまり、大切な個を潰しかねないと。


容姿を脇に置けばわたしたちは元々誰とも似てなんかいない。親でさえ違う。けれどわたしたち一人一人を構成している『元素』はそんなに多くない。そっくりなのは幻想で共通点はどこまで行ってもどんなに増えても共通『点』でしかない。



何に『同じ』を感じるかがそもそも違うのだから、

あの人のここはわたしだ
わたしのここはあの人だ

と気付いたときに芽生える気持ちが『わたし(個性)』を形作るのではないかと考えました。

共同体意識というのはこの事を感覚として知っている、ということなのだと思うのです。


善悪とか優劣とか便宜上は使うけれど、人という生き物はもっとグレーでいいのかも知れません。自然のものは全て近づいて見れば見るほどに地続きでグラデーションにできている様に思います。楽しい賢い美しさが個性なら、迷いも苦しみも愚かさもかけがえのない個性となぜ言えないのか。それらは表裏であって決して独立していないように思います。



世間一般で言われる個性は誇張しすぎているきらいがあります。みんなが幻想を追いかけて疲れ果て、何かの答えに依存して、そこから逃げるようにことさら特別を誇示する人はもはや平凡です。



ビジネスの畑では差別化が必要かも知れないけれど売るために捏造した個性はボロが出ます。本当は個性なんか無くてもいいのかも知れません。自分を含め誰とも戦わない、誰も責めない、奇をてらわない。そうした静寂(ゼロベース)の中で出てくる表現こそが言葉であれ行為であれ、光になるのだと今は思っています。

あたまのわるい悪魔

景気が悪い
生まれが不幸
あれがない
これがない
騙された
奪われた

この世は地獄なのか

そう思うならたぶん、そう。


でもこの世が地獄だったからと言って不貞腐れたり絶望する義務は別にない
地獄には地獄の歩き方がある
天国じゃなきゃ生きて行けないよと言うやつは

一生天国なんか行かれない。


自由に闊歩できるようになった時
たぶん、そこは幾分かましな地獄になる

そこで何か得たとき
たぶん、そこは大分ましな地獄になる

そこで喜びを得たとき
たぶん、そこはかなりましな地獄になる

そこで友達を得たとき 
たぶん、そこはふつうの地獄になる

そこで仲間を得たとき
たぶん、そこはちょっといい地獄になる

そこで家族を得たとき
たぶん、そこは素敵な地獄になる


そして時が経って
次は天国にいけますようにと見送られる時
『行きたくない、ここがいい』
と言ってしまうんだろう


世の中には恵まれた時代も恵まれた人生もあるけれど、苦しみを感じない人間はあまりいない。持っているものが多ければ失う苦しみも深い。わたしたちは所詮同じ土地で足踏みをしているだけで天国も地獄も実は『やって来る』ものなのかも知れないなと思っている。全ての人が自分の天国を見つけられますようにと思う。


頭の悪い悪魔はきっと
頭の輪ある良い悪魔。



好きだったなあ。グレイトリッチーズ。