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じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

愛すべきは「強さ」より「弱さ」

大切なお友達がたくさんいます。

その中の一人に言われました。

 

「あなたは自分を《さらけ出す》ことは良くできているけれど《弱さと向き合う》はできていない気がする」

 

内緒にしていましたが、幼い時から人の中に入るのが嫌いです。横に並ぶのが苦手です。自分から人に興味を持つことが少ないです。上下の関係が楽です。気が付くと人を裁いて測っています。自分が対象になるのを連想するため噂話や悪口を聴くのが苦痛です。指揮系統のない集団が不快です。能力があるのに自己評価が低いため裏返しで自分より出来ない人を必要以上にバカにしてしまう時がありました。

 

そして、少し人が怖いです。

 

 

 

先日、学校で役員決めがありました。わたしは免除対象なので言ってしまえば係わりないのですが皆さんの不安が立ち込め、嫌な時間でした。くじに当たって嫌そうな人を見て

 

「どこかで当たるのだから腹を括れば良いのに」

「なぜ今まで自分からやらないでいたのだろう」

「足掻く姿が《格好悪い》」

 

と思いました。

 

でも、なぜそこに着目してしまうのか帰宅後掘り起こしてみたら、わたしはそう思われたく無くて皆さんと同じになりたくなくて、PTA会長というある意味《ヒエラルキーの頂点》に来たのかも知れないと気付きました。最後まで逃げようとするか、覚悟して飛び込むかはプロセスが違うだけで【不安】という出発点は変わらない。

 

美学や善悪では語るべきではない根元的な部分で、嫌がるその方に投影しわたしはわたし自身を蔑んでいたのです。

 

もちろん、ここに至るまで幾度も試され鍛え上げられ、きっと生半な気持ちでは務まりませんでした。でも、「同じだな」って思います。もし6年間何もしないで済むと約束されていたらきっと飛び込んでいないでしょう。身綺麗にして人前で慣れたように喋るわたしは格好良いかも知れないけれど腹の中は誰よりも臆病で十二分に《格好悪い》です。決して聖人君子ではないのですよ。そこを認めてもっと告白していかないと良くない意味で本当に浮世離れしてしまうと思いました。【なんのためのわたくしか】また試されています。

 

 

この間、離れた土地で「保護者の会」の会長が容疑者となりました。どのような組織かは知りませんが過ちは肩書きや年齢に拘わらず全ての人の肩を叩くものです。擁護する気はありませんが必要以上に囃す気もありません。ただ、人選の重要さを再確認したことと事件を知った全ての人と何を共有できるだろうかと思いを巡らせています。

 

自分の弱さや醜さを手放すためにはそれを自分で愛し、共にそれを愛してくれる誰かが必要な気がします。愛されたければまず、見ていただかなければいけません。今はそう思います。

 

 

 

微笑合掌