いけない人妻
※こないだ冗談でFBにライブ投稿した官能小説(?)をリライトしました。こういうの男性誌で単発ものを2、3回読んだ程度の知識ですのであしからず笑
・・・・・・・・カップラーメン食べたい。今。
深夜、23時をとっくに過ぎていた。
何か不満がある訳ではない。代わり映えはしなくとも今日も充実した一日を過ごした。一日のうちに一日分の家事が終わらないのは毎度のことなのだから潔く諦めて後は床に入ればいいだけ。もう体は弛緩し始めている。
ただ・・・ほんの少しだけ満たされない、フリをしたいだけ。
転勤で引っ越して部屋が増えたことをきっかけに夫とは寝室を別にしている。廊下の先からは威勢の良いイビキが響いている。今日は涼しい風が吹いて過ごしやすい。気持ちよさそうね、と微笑する。リビングの隣では子供たちが寝ている。じゅんこが静かに過ごせるのは夜くらいなのだ。
こんな夜に寝てしまうのはなんだか勿体ない気がした。どうせ夜が更ければ末の子に夜泣きで起こされるのだから。。。
パソコンに向かってブログを更新しながら逡巡している姿をもう一人の純子が見ている。憂いを帯びた目を伏せて気に入りの椅子にもたれる唇や首筋や二の腕に温かな匂いを纏っていた。小さく柔らかい指先でひじ掛けの先を愛撫する。物欲しげなしぐさをわざとしておいて、バカみたいねと、一人はにかむ。
自分の中のもう一人が言う。
(きちんと自分を満たしなよ。)
(そのまま今日は寝てしまうの?)
(もっとあなたの顔を見たいな。)
(昼とは違う顔を。)
ぼんやりとした頭でそれを聞いていると、体の奥が鈍く熱を持っていった。
ゆっくりと思考がとろけていく。目の前にありもしないスープの香りを幻覚する。おもむろに立ち上がりキッチンへ向かう。
空き箱を利用した食品ストッカーから「それ」を取り出した。なぜそうしているのか自分ではわからない。
じゅんこは迷いながらもゆるりと電気ケトルに水を注ぎ、自らそのボタンに手をかけた。
「カチッ」
ああ・・・いけない! 我に返った。
こんなとこで何をしているのだろう。しかもこんな時間に。ダメダメ、こんな誘惑に負けるなんてわたしらしくない。いつものわたしじゃない。
まだ引き返せる。・・・けれど確実に体は受け入れる時を待っていた。
そうだ、アマニ入りのパンがある。あれを軽く焼いて口に含めば紛れるかも知れない。
こんがり焼けたパンを小さな口に頬張った。 瞬間、無意識に冷蔵庫に手が伸びる。白くふくよかな手にはバジルペーストとバターとスプーンが握られていた。
いやだ、わたし何をしているの?これじゃあ、まるで・・・。
気持ちとは裏腹にじゅんこはそれらをパンの残りへ塗りたくり、気が付くともう、跡形も無くなっていた。
リビングへ戻るとテーブルの上にはペアのカップと皿が。ついさっき夫と和菓子を食べたばかりなのに・・・。
お湯が沸いた。
いけないと思えば思うほど囚われるのが人の常というもの。
また、もう一人が言う
(本当は飢えているんだよね、心も体も。)
眠い、寝たい、でもほんの少しだけ今日は
・・・いけないことをしてみたい。
ケトルがしゃくるような口で見つめている。可哀想なことに、気を紛らわすために食べたパンは余計にじゅんこを刺激した。
時計は12時を過ぎた。 さっきのスプーンでバターを舐めると少し落ち着くようだ。もう大丈夫かもしれないとふと、PCの脇に目をやった。影に隠した「それ」と目が合った。
《津軽 帆立貝焼き味噌風》
ああ・・・見なければ良かったのに。ピンクに塗った短い爪を立てて底のビニールを破く。めくりあげた蓋から覗く麺に熱い湯を注いでしまうのか。。。
ごめんなさい、わたし我慢ができない。
どんな謝罪も言い訳も納得がいく道理はないのに胸の奥から突き上げるような衝動に成すすべは無い。湯冷めした肌が甘く香る。振り乱した髪はまだほんの少し濡れていた。
キッチンからケトルを奪うように持ってきて勢いよく熱いものを注ぎ入れた。
その口から立ち上る湯気に眉を湿らせるじゅんこはすでに恍惚としている。
でも、まだ、引き返せる・・・。
それに、ほんの少し、一口だっていい。そう、残してしまえばいい。
そう思った次の瞬間。
衝撃が脳を貫いた。
なんてリアルな味噌と磯の香り!!!!!
ああ、もう引き返せないのね。こんな反則はダメよ・・・。
両手で顔を覆いながら首を振り、でも心は3分を待ちわびている。裏腹にすればするほど高ぶって行く。
(あなたの顔が見たいな。)
恐る恐る上気したカップに手を伸ばした。温かい。胸元へ引き寄せじりじりと蓋をめくる。こぼれたら火傷してしまう。本当は一気に剝がしたいのに・・・。
普段じゅんこが作る野菜ばかりのお味噌汁とは違う香りが、恥ずかしいくらいに辺りに満ちる。子供や主人に気付かれたらどうしよう、なんて言われるのかしら、どんな目で見られるのかしらと、思えば思うほどに興奮した。
フォークを浸してスープを飲む。
ああ!しびれるほどの旨み!これが帆立なのね!!港町に来たみたい!!
もう戻れない。罪の意識も忘れ、美味しさに目を白黒させながら間髪を入れずに麺がのどを伝っていく。シミはあるものの歳のわりにはまだまだ瑞々しいじゅんこの喉がこくりこくりと波打っていた。
秘密の夜は更けていく。
おわり
幸福についての考察③ 幸せになるために
幸福についての考察①②とリンクする内容です。
宗教、教育などを通じた生き方指南の多くは
・『秩序』を軸にすること
・社会的に有益な人材であること
・ルールを重んじること
・欠点を排除あるいは好転するよう努めること
➡「それによって愛される」
とするものと、
・『感情』を軸にすること
・他人の評価に依存しないこと
・自由にあるがままにいること
・自分にも他人にもそれを認めること
・善も悪も存在しえないことを知ること
➡「それによって周囲に愛が満ちる」
とするもの、の二極に還元される気がする。
そして昨今メンタルケアの分野が注目を受け急激に前者から後者へ価値観の移り変わりが起きているような印象がある。わたしは前者を「父(社会)的な教育」後者を「母(家庭)的な教育」と思っている。
古代、人々が共同体を形成する上で『秩序』やルールが生まれた。でもそれは人類の歴史全体で見たら実は期間限定的で物資の流通や金銭の概念が変革するこれからの世界はその枠組みが無くなって行く気がする。
よく考えると社会的通念よりも、ずっとずっと昔から人は存在していた。『感情』は生命の維持に必要な生理的欲求から派生している。人が生きる限りきっと変わらないし無くならない。生きやすい環境は心地よいし、生命維持に有益なものは美味しいし美しいし愛しい。そうでないものが不安や嫌悪を生むようにね。
『秩序』と『感情』どちらにフォーカスした方がより「幸福」を感じられるのかしら?
個人の中には昔から答えは出ていただろうけど、時代がそれを許可してこなかったのかも知れないね。
幸福についての考察②でも述べたのだけど、メディアデトックスのように現代人は
『IN』より『OUT』
『ON』より『OFF』
にフォーカスすることが大切に感じるの。
例えば、
『蓄える』よりも『シェアする』こと
『食べる』よりも『排出する』こと
『集中する』よりも『脱力する』こと
『管理する』よりも『手放す』こと
『思考する』よりも『体感する』こと
陰陽のバランスみたいに偏りを無くすことでより感覚がクリアになる気がする。
ここが鈍ってしまうと危険も幸福も感じられない。『感情』や『体感』だけは他人には分からないことだから。どんなに人が羨ましがっても、わたしが望んでいないことは「幸福」と呼べない。物事に触れた時に何を感じるかをしっかり掴めなければ自分の「理想」も「希望」もきっと存在し得ない。
メンタルやスピリチュアル、ビジネスの話でよく出てくるのだけど、
「レストランに入っても何も頼まない人の所には食べ物は来ない、それを分からずに他のテーブルを羨ましがっていてはいけないよ。」
という話。上手く行っている人はまずその結果を希望している。目的(幸福)を達成する前には頼む(希望する)ということを知らないといけない。でも前提として自分が何を食べたら幸せを感じるか知らないと目的は達成しない。
感情を大切に、
今していること
食べているもの
見ているもの
着ているもの
聴こえているもの
会っている人
に、何を感じているか。
より多くのデータを集積して出た答えがあなた独自の「幸せ」の形だと思う。
好きなものは何ですか?
と聞かれて一瞬思考が停止したり「例えば何のジャンル?」って聞き返しちゃう人はもっと丁寧に日常を感じてみるといいかも。
ちなみにわたしは先日、生まれて初めて「カツ」が好物って知りました(笑)。それまではね、「特にないです。」とか「なんでも好きだし食べられます。」って言ってたの。お菓子やフルーツは良く食べるけど・・・って。食べに行くこと全くないのだけど、自分とお話しする中で、「そういえばカツ食べた時上がるわ」って気付いた。本当に不思議。まだまだ知らない自分に出会えるかも。
おわり
幸福についての考察② 欠乏の正体
幸福についての考察①とリンクする内容です。
前にホリエモンさんが「人の欲求は情報がつくる」とコラムで言っていたの。どういうことかと言うと、あれ欲しい、これ食べたい、は「あれ」や「これ」の情報がなければ生まれようがない感情だということ。
戦後、物のない時代に比べて日本はとっても豊富な物資に恵まれていると思う。だけど、「満ち足りているか」というとなかなか胸を張れない。
戦中、闇市の端っこで飢えていた子供たちも、
現代、就職が決らない新卒の子たちも、
「欠乏感」は同じようにあるはず。時代によって欲求が変わるというよりは
『何によって欠乏するのか』
が変わるのだとわたしは思う。
時代によって情報の開示が変化し訴求ポイントがずれるだけ。
幸福についての考察①でも触れたけれど情報があることによって、より欠乏していくのであれば情報化社会は人を飢えさせる文化とも言える。命があっても体があってもご飯があっても寝るところがあっても自分より恵まれた人がいる、それが大多数だと「思い込む」となかなか平穏ではいられない。皆が手の内を明かし合い、恥ずかしさや欠点を共有できるコミュニティーを持たないと知らない間に追い詰められる仕組みだと思う。これなら物理的、精神的欠乏感などいくらでもメディアが作り出せてしまう。不安もその一つ。胸糞の悪い事件もどんどん開示されるようになった。それらに思いを馳せている時間はわたしたちの平穏を脅かしてはいないかしら?答えの出ない問題に心をすり減らしてはいないかしら?
みんな気が付いていないけれど、携帯を見るとき、PCを開くとき、無意識に「なにか事件はあったかな?」「ムカつくことはないかな?」「自分を刺激するような嫌な人がいないかな?」「何か欲しくなるようなものはない?」って探してる。気が済んでもまた次がやってくる、それはもう中毒のよう。
海外のセレブは携帯やメディアを遠ざける「デトックス」をし始めたようよ。1週間から数か月、あらかじめ友達に伝えておいて携帯やPC、テレビをOFFにするんだって。人間の脳もデバイスと同じ。常にバックグラウンドで動いてる。限られた容量を何に使うのか自分でデザインしていく工夫ができたらもっと幸福感が増すような気がする。
刺激の強い情報には特に気を付けて行きたいものね。
➡幸福についての考察③につづく
幸福についての考察① 「幸福度」
大事な大事な話をします。
「もっといい部屋に住みたいなあ」
「あんなふうなおしゃれなお店でご飯食べたいなあ」
「あの人みたいなお高い靴を履いたらいい気持ちだろうなあ」
連日テレビや雑誌、SNSで繰り広げられる【イケてるヶ原の戦い】。
いい光量で、いいアプリで、いいタイミングの、いい角度の、イケてる写真をうp。
誰でも一度は参加したことであろう。
かくてわたしもキラキラ系に憧れて背伸びした高いご飯を食べに行ったりしたもんです。
でも、もういいや。
あのね、結婚当初お金が無くて、子供もいて。オシャレスポットなんか行けなかったの。だからご飯もスイーツも手作りだった。わたし、調理科のある高校だったから調理は結構教わったんだけど(所属は服飾科)お菓子はほぼ独学で泣きながら何度もケーキを焼いた。焦げたり膨らまなかったりしてさ。それでも美味しいもの食べて優雅に過ごしたかったの。「あの人たち」みたいに。材料費もバカにならなかったけど兎に角しみったれたくなくてそんなにお金かけないでできることをし続けた。
ほしたらね、何年も経ったある日市販のケーキをいただいて「おいしくない」って思ったの。バターじゃない油脂の味、乳化剤などの添加物の味、膨張剤で作ったスポンジ、生乳じゃない生(?)クリーム。。。味が解るようになっちゃった。後で気付いたんだけどテキストが古いレシピ本だったからやってたことが結構本格的だったのね。
子どもが大きくなって来たら、もうその辺のお味じゃ満足しなくってちょっとこじゃれた店に行くようになってた。それは良い気持ちだったの。「わたし違いわかる。わたし今おしゃれ。」って。
でね、極め付けにSNSで見た「鼻血がでそうなほどおしゃれなホテルのアフタヌーンティー」に行ったわけ。一人5400円。もう、期待値はMAX。色とりどりのスイーツが3段重ねのお皿でやってきて、数えきれない紅茶の中からダージリンのセカンドフラッシュを頼んで・・・ぱくっ
ん?
・・・は?
なにこれ?
ハンバーガーべちょべちょ、サーモン生臭い、いちじくカピカピ、チョコレートの装飾も見た目ばかりで美味しくない!シュクレと自家製のコンフィチュールは及第点。サービスも、隣の席とサーブ時の説明が違う、もう出涸らしのポットに永遠にさし湯してくるし、、、
同行した姉と鼻で笑って帰って来た。場所と値段と中身のクオリティーは必ずしも比例しないのね。味がわかったら二度と行かないはずなのにFBじゃ写真が撮りたいのか2度も3度もうpしてる人がいた。もっとましなお店知らないのかしら?
あれ?
憧れていたところに行ったはずなのにちっともハッピーじゃない。なんでだろう?
違いが分かれば分かる程「満足できる条件」が減って行く。
昔は満足してたものも、だんだん気持ちが薄れて行った。それはなぜ?
どんなに好きで満足していても、別の物が視界に入ったら試してみたくなる。
眼で見ちゃったら、聴いちゃったら、わたしたちはその瞬間から『比較』をするのじゃないかしら?そのことによって知らない間に既存のありがたみや新鮮さが剥奪される。
もしかして、「イケてるヶ原の戦い」はいたずらに欲求を刺激し合ってお互い欠乏するのがゴールなのかしら。
海外に住んでお金があってホテルのディナー食べながら不機嫌な人もいる、
小さなアパートに住んで大好きな駄菓子でニコニコしてる人もいる。
人生に勝ち負けなんかないけれど、幸せな人が最強だしゴールだと思うの。だから幸福度って、「何を持ってるか」じゃなくて「何を感じてるか」かも知れない。勝ち負けで言うなら生きている間、『何分笑っていられたか』ってことじゃないかしら。
それに気付けないと良くない方へエスカレートをしてしまうみたい。
「今」より良い生活を目指すのは決して悪くない。でもそれが「今」の否定になっていたら幸福度は低い。
沢山の良いものを知ること、経験することがステイタスだった。でもそれは幸福度と関係なかった。むしろそれらの情報はわたしの中に「そうじゃない」ものを増やした。無駄と言えば無駄だけど、無駄をしたから気付けたこと。宇多田ヒカルちゃんの歌にあったよ、
『足りないくらいでいいんです 楽しみは少しずつ』(2時間だけのバカンス)
実感なく言ってもただの美徳や我慢になるけれど、わたしにとってはもう、それが答え。無理をせずに肩の力を抜いて必要なタイミングで素敵なものに出会いたい。
40手前。折り返し地点が来ているのを感じる。
➡次回 幸福についての考察② へつづく
その先の世界
獲得しない人々は「今見えている扉がゴールではない」こと、を知る由もないのだ。
彼女がいない人は「彼女がほしい」というが、
その先の方が長い事を知らない。
結婚をしていない人は「結婚したい」というが、
その先の方が長いことを知らない。
稼ぎが少ない人は「稼げるようになりたい」というが、
その先の方が長い事を知らない。
外国語を喋れない人は「喋れるようになりたい」というが、
その先の方が長い事を知らない。
自分で着物を着られない人は「着物を着られるようになりたい」というが、
その先の方が長い事を知らない。
まだその先に見たこともない世界と新たな扉が必ずわたしたちを待っている。
きっと、
その扉が重ければ重いほど
世界は広がって行く。
(すいません、わたしもだいたい知りません)
微笑合掌
cantabile(カンタービレ)
好き、愛してる、感謝
が
いつか依存にならないかしら?
と
思って考えた。
今日、何の心配もなくたって
明日、重い病気に気付くかもしれない
明日、大きな事故に合うかもしれない
今、
手にできるものがあるなら、
経験・体感できるものがあるなら、
掴んでおいた方がきっといい。
その一方で、
もしも明日、息絶えることがあったとしても
”終わっちゃった♡てへぺろ♡”
と言えるくらいの身軽さを持つこと。
悲しさ
苦しさ
執着
恨み
「あの人はどう思うだろうか」 という他者への憂い
「なんで私が?」 という不毛な問い
・・・から、解き放たれること。
それが本当に「素敵だ」と思う。
それが本当の「自由だ」と思う。
少ないけど、いろんな方の「物語」を見て来た。
死に方は生き方。
わたしよ、
歌うように生き
歌うように去れ
きっとその姿は後進の心に
歌のように、残る。
「志なかば」という言葉は
残った人が使えるようにそっと置いて行けたらいいね。
微笑合掌
※cantabile(カンタービレ)はイタリア語。ピアノなどの楽譜で「歌うように(演奏する)」という意味で使われます。中学時代、合唱部の先生が発行していたお手紙の題号でした。ちなみに合掌部は無かった。
純粋な黒
全く持って純粋な黒などと言うものは
この世にはないんじゃないかしら。
漆黒という言葉があるでしょう?
漆器は朱の下塗りをして、何度も何度も塗っては磨き、を繰り返して
やっと美しい黒ができるの。
喪の着物も最初に赤、もしくは藍で染めた上に黒を重ねて
やっと美しい黒にするの。
お洋服も黒に染めるのはなかなか難しくて2回くらいは染料を使わないといけないのよね。
夜の闇だって、カーテンを引いた部屋だって、私たちの目はすぐに慣れてしまって、
動く影、僅かな光、あろうものなら目ざとく掴んでしまう。
なったことないのだけど全盲の方はどうなのかしら?
景色が見えなくても瞼の裏にいろんな色を隠していたりしないかしら。
行ったことないのだけどブラックホールって本当に「黒」なのかしら。
私たちの目は光を見続けられないように闇も見続けられないのじゃないかしら。
どうせ移ろうものならば、
触れたら濁ってしまいそうな白よりも
なんでも飲み込んで艶を増す黒でありたい
真っ白く照らして眼を眩ませる光よりも
いつのまにか忍び寄って包んでしまう闇でありたい
純粋に
そう思う。
微笑合掌