じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

【匂い】

かなしみ と くるしみ

いらだち と わがまま

さよなら と こうかい

よこしま と ながしめ

こころね と うたかた

まどろみ と  そねみ

 

 

逢いたくて 逢いたくて

それでも  逢いたくて

 

 

寂しくて  寂しくて

それでも  寂しくて

 


こいしくて

はかなくて

 


今日の終わりに 思い巡らす

 


好きですと云われたら

古傷が疼(うず)きだす

 

 

誰でもひとつくらい

済ましていない  恋がある

 

誰でもひとつくらい

ゆるんだ ほころびを 持っている

 

 

夜闇のように

煙交じりの吐息のように

しらない内に染みてくるのは匂い

 

 

 

カサカサに乾いた このほころびに

アートへの考察③ 台詞とコミュ能力と言語

「テーブルの上のお醤油をとって頂戴」

 

と言われて

 

「はーい」

 

と返事することや

実際に醤油を手にとって声の主に渡すことができる

 

・・・という程度の話をしているわけではない。

 

 

今日は、

自分にとって一つ一つの単語がどのような「意味」を持つのか、

そこから形成された語群がどのような「メッセージ」を持つのか、

そのことによって聞き手にどのような「行動」を望むのか、

 

が『個人の言語』だ。

 

・・・という話をします。

 

 

例えば、AさんとBさんでは同じ日本語を用いても発信している内容が違う。

 

Aさんの『お腹すいた』は

前の食事から時間が経っていて「非常に空腹だ」ということを察して自分の為に早く食事の準備をしてほしい。という言葉。

 

Bさんの『お腹すいた』は

あなたと「一緒に食事に行きたい」のであなたにも「お腹すいた」と言って(共感して)ほしい。という言葉。

 

 

「いや、最初から全部そう言えし!」

・・・わかるよ。でも、日常の会話ってみんな恐ろしいほど自覚していない気がするの。仮に事細かく言ったことでニュアンスが変わってしまうし、良い返事がもらえなくなることもあるよね。わたしにとって言語とは一人ひとり独特の成り立ちを経ている【個人の物語そのもの】なんだ。

わたしは本や戯曲を書く人間、演じる人間はこの辺の微細なところが解るかどうかがそのまんま仕事の評価につながる気がするの。要は読み解けるかどうかで発信の精度が左右されるということ。

 

気心の知れた人(伝達の失敗を繰り返して、それでも許し合ってラリーを長年続けた相手、)

自分と似ている人(もともと持っている言語が近い相手)

上手くいくのはそういうことなんじゃないかしら?と思うの。逆もまた然り。

 

 

 

日常の中で『あれ?』と思ったら相手の言語との差異を探って自分の伝えたい内容をかみ砕き【翻訳】しないといつまでも距離が縮まらないよね。

 

良いコミュニケーションが取れる人って性格云々の前に言語能力が高い。 

彼らは

①知ったかぶりしない

②分からないところはその場で聞き返して確認する

③相手の理論を自分の言語に置き換えて「それってつまりこういうこと?」と解釈が合っているかただちに確認する(理解するかは別)

④意味や成り立ちが解るので「なるほど、あなたはそう思うのね」と差異を認められる

 

 

対して未開発(苦手)な方々は

①「なんかそれ聴いたことあるかも。へー。。。終」と知らないことはスルー、興味を示さない(深める質問が浮かばない)

②「それ普通の人(自分)は分からないから」と棚に上げて会話を遮断する

③「そんなのはありえない」「そういうことじゃないんだってば」と自分の価値観に無いものを自分の言語に置き換える努力をしない、相手の言語に置き換えられることも不快(意図がわからない)

④意味や成り立ちが解らないので「え?それキモい!」「これってわたしだけ?」となかなか差異を認めない、差異の発見にネガティブ

 

 

長年の甲斐あって最近主人がわたしの言語を理解し始めた。お陰でとても生きやすい。

でも、相手が変わったと思うのは【自分が変わったサイン】なんだよね。良い時も悪い時も。逃げなくて良かったなーとやっと思う。わたしにとっては『言語を認める=相手の物語を認める』だから。

 

 もっともっと、日本語を学びたい。言語を操って上手に人に触れていきたい。それがわたしの好きな、【平和】という名の文化。

 

 

食事も会話も良く噛んでいただくのは健康な消化のために善い。

 

 

 

 

微笑合掌

続報《じゅんこダサいダサいキャンペーン》

 昨日のつづき。

たくさんスタンプもらいました。

箇条書きで殴り書き感満載なリストだったけど皆さん読んでくれた。

 

 昨日の↓

http://jawjawjezebel.hatenablog.com/entry/2017/05/11/192237

 

 

始めに言っておきます。

読んでくださった方々、感謝しかないです。軽い気持ちで読んで不快になった方もいると思います。今日のブログもおもんないと思います。いつものわたしなら平謝るし、今も「申し訳・・・」が喉まで来てます。でも謝んないのです。わたしがわたしを認めるために必要なプロセス。だからどうぞ自己責任でお願いします。。。

 

 

リストを出す時「ほんとに出すの?ほんとにいいの?つか同情されようとしてない?フォロー減るよ?この後に記事書いても説得力減るよ?キャラ悪くなるよ?肌断食カンケーなくね?そもそも@使って何をしたい人なのよ?登録者を私物化してない?そこまでお前のファンいねーよ?」と思ってドキドキした(いやマジでそうなんだけど)。

 

 

で、

 

 

で、

 

 

「感想や励ましはいらない」っていってたのにメッセージ来た。とっても優しくされた。

 

本当に本当にありがとうしかないんだけど、「大丈夫だよ」って励まされたり「大好きだよ」って言われたことが(凄すぎる!神!)嬉しい反面、実は心のどこかで受け取れない私がいたの(・・・今書いててびっくりして自分に引いてる)。

 

振り返ってみて、それはたぶん今回『自分をいじめるために嫌われたい気持ちがあった』のと『実は自分の中で過去の事になっているって自覚がある』からなんだと思った。あのリストは長年、上手く行かない理由や言い訳として大事に大事に使って来た【拠り所たち】だったの(ブログには出さないと思う)。もちろん今のわたしを形成する重要な出来事ではあったのだけど、思ってた以上にもう出涸らしなんだな。たぶん。

 

始めはこんなことして何になるのかわからなかったけど「出したい」って思って。実際、出さなきゃ分からないことが沢山あった。そう、良い実験になりました。

 

 

【持っていると気持ちの悪い自分の短所や過去を開示すると】

 

➡隠し事感が無くなり、すっきりする(どーでもよくなる)

 

➡でも本質はそこじゃないと気付く

 

➡じゃあ自分を堰き止めているものはなんだろうと改めて探求する(いままでの言い訳が通用しない!)

 

➡さらに隠れてた根っこの部分が見えてくる

 

※ループするごとに欲求がクリアになっていく。

 

↑こんな感じかしら?

 

 

ありがたいことに今回、底までつついてくれた人がいて(メンタル勉強してる人ってみんなイケてるな!)、今まで自分では当たり前と思っていたのだけど、頑なに我慢して抑え込んでいたある事柄が見えました。それはね、「人言わなくていい」ものだから「自分を見てあげて」って言われて憑き物が落ちた気分。毎回荒治療なわたしのクリーンアップだけど、自分のペースで行きつ戻りつ【らしさ】に近づいているみたいです。元気になってきたよ😃

 

報告おわり。

 

みんなラヴです。

⦅じゅんこダサいダサいキャンペーン⦆

こんにちは。

 

「そんなに無理に自分と向き合わなくっていいんだよ」

 

ってお友達が言ってくれた。

 

 

まだまだあった

《じゅんこダサいダサいリスト》

ここに貼ろうかとも思ったんだけど、あとに残ったら嫌だなってまだ思うからLINE@で見てくれる人だけに送ってみようと思います。

 

感想も励ましもいらないの。じぇんじぇん関係ない誰かがそっと知っておいてくれたら嬉しい。

 スタンプくれたら送ります。

じゅんこわたなべの公式LINE@

ID:@ube0629o

(頭の@を忘れないで入れてね。)

 

https://line.me/R/ti/p/%40ube0629o

膜を破ると幕が上がる仕掛け

私が頑張っていることは誰よりも私が良く知っている。

誰にも負けないくらい必死になって走ってきた。

でも、それももう終わる。

 

心の奥底でずっと生きていることを許されたかった。みんなと同じができない。みんなとちがう。みんなと仲良くなれない。子どもの時から子どもが嫌い。なのにちっとも強くなれない自分がほんとは嫌いだった。

 

できないものはできないし、やりたくないことはやりたくない。やる理由のわからないことをやらせられることにウンザリしていたし、今もしている。寄り添ってもらえないから、理由を説明してもらえないからどうやったら「やる理由を見つけられるか」どうやったら「好きになるか」を考えて行動して、それでも追い詰められたら「理由を見つけられないわたしが悪いのだ」と、いつしか我慢して飲み込むようになった。どんなに社会を恨んでも社会に順応しなければ生きては行かれない。

 

これまで、不十分でも「今できる精一杯」をしたつもりだった。私のできる範囲での精一杯。だけどそこに自分が価値を見出せなかった。「これだけやったのだから」という自己満足だけで

 

お金も

社会的評価も

資格も

手元に残るものは何もない。そう思ってる。

 

楽しんでいろんなものにトライしてきたけど、ほんとうは少し違った。どうやったら自分の土俵を出ずに「未婚」や「子なし」に並べるかという劣等感の回避だった。

 

ずっとずっと苦しかった。

子どもの時からずっと。

でも、それが「私」だった。

 

私は自分を傷つけるために生きて来た。

それに気付いた。

そうしなさいと言われて育った。嘘じゃない。

幸せそうな人をみるとざわつく、

「嫌い」や「苦手」を声高に叫ぶ人をみるとざわつく、

結婚の写真を人にみせる人にざわつく、

子どもが欲しいという人にざわつく、

こんなに楽ちんに生きていますという人にざわつく。

 

うらやましいの。

とてもとてもうらやましいの。

 

嬉しい事があったとき、とても感謝して幸せになる。でも、自分が幸せでいることをいまいち許せないから同時に不安になる。

「嫌い」や「苦手」を私が言い始めるとジャッジがきつすぎて確実に人も自分も傷つける。

幸せな結婚の夢が破れて「結婚では幸せにならない」と決めたから幸せな行事と思っている人が気持ち悪い。

子どもが欲しくなかったけど恐くて堕ろせなかった。産むと言ったら1ヶ月で解雇された。働かないと実家には住めない。当時宗教団体に献金していたので一人で産んで一人で育てるためには資金が足りなかった。遅かれ早かれ子どもと心中するか餓死するしかないと思ったから生きるために結婚した。死ぬのが怖かった。

だからせめて、このレールの上で褒められる生き方をしようと思った。以降はそういう選択をしてきた。

でも自分からは逃げられないからこんなにしんどい思いするくらいなら早くに死んじゃえばよかったと頭をよぎることが(ほんとにたまにだけど)いまだにある。

 

全部、全部、思い込み。

そうやって可哀想がっていないと自分を愛せない。

まだだめだ、といじめていないと、

もっとだせ、とえぐっていないと

 

 

悪い事をしているような気になる。

 

 

でも、それももう終わる。

「しなくていい」って分かったから。

 

 

新しい事に向かい始めたからまた勝手にクリーンアップが起きていて、いろいろ掘り下げて向かい合ううちにやっとたどりついたの。

 

 

「好き」だけで生きていいって。

 

 

バカじゃないの、はじめからそうよって思う人もいるんだろうけど言わないでね、泣いちゃうから(笑)。私はね、崖を登らないとここに来れなかったの。

 

 

認めたくないことばかり。

褒めたくないことばかり。

好き勝手やって叱られているのに、またそんなこと言い出すの?と言われそうなことばかり。

 

 

手伝う気が無いならほっておいて。

私は何者でもない。

みんなとおなじでみんなとちがう。

ずっと、ここにいるようでここにいなかった。

 

 

 

 

 

 

 だからね、もう、いいかげん生きることをゆるします。

と、いう自分の為の報告。

アートへの考察② 音と詩と舞 ~作曲と振付~

 卵が先かひよこが先か。

 

 

二つ以上の要素が絡まる作品は作り手によって流儀があるようです。

知人のソングライターは歌を作る際、音から作って詞をあてると言います。しかしながら、制約のある作詞になるので、自由に書く詩に比べ「内容が薄くなっちゃう」のだそうな。

わたしも他で作詞を頼まれたことがあるのだけど、音に当てはめるためにはまず「節(ふし)」をとるセンスが問われるな、と思いました。短い単語を無理に伸ばして曲と合わせたり曲調を無視して早口に詰め込んでは曲も詞も良さが半減してしまう(先に詩を書いて後から曲をつけるとだいたいそうなっちゃうので聞いたらどっちを先に作ったか分かる人には分かる)。

 

決まったメロディーとテーマに嵌めていく作業は俳句や短歌のようでわたしは比較的得意な分野です。七五調にしとけば大体嵌まるのは不思議。

 

でもカッコよいか、伝わるか、は別問題。例えば普通に歌手が歌う曲とミュージカル楽曲では単語の重量も違うのですよね。一般の楽曲ならBGMで心地よく聴けたりカラオケで歌いやすくないと大衆受けしないでしょうし、ミュージカルの曲で抽象的な表現だと聞き手に刺さらない。

 

ちなみにドリカムの吉田美和さんは「詞と曲が同時に降りる」のだそうな。天才っているのね(笑)と思います。わたし、歌も好きなので曲が書ける人に憧れます。

 

 

一方、最近わたしは舞台を使ったパフォーマンスをしたくて色んな方に助言を頂いているのだけど、とある舞踊家の先生は振付について「完全に音が先」って仰ってました。それも「必要な時に良い楽曲が降りて来る(ように見つかる)」のだそう。もうなんか愛されてらっしゃる。わたしは自分の表現したいものを固めてから楽曲を決めようと思っていたのだけど、理屈より感覚に頼った方が良いものができるのかも知れませんね。いろんなタイプの方がいるのだろうけど。

 

 

パフォーマンス(LIVE)にとって音って一番大切な要素なのかもね。何を今更・・・なんだけども二人のお話を聞いて、場の空気を作るのは視覚や言語ではないのかもって思いました。

 

 

音楽は香り、

視覚は味、

言語は原材料、

 

みたいなことかしら、と。帰り道の焼き鳥屋と同じ。

 

屋台は見えないけど匂いで惹きつける、

食べたら美味しい、

え?そんな高いの?あー国産なんだどうりで。

 

みたいな。意味が解るのは一番最後。

 

 

悔しいけれど詞は最後のお役って感じかもしれないですね。舞踊に関しては必ずしも必要ないし(しいて言えば題名やテーマかしらね)。作品にとってメッセージは根幹だし大本なのだけど、受け取りやすい形状ではない。どのように訴えていくかの部分で「MC」だったり「パンフレット」だったり「アナウンス」だったり「歌詞カード」だったり使い分けするのね。ふむふむ。そんな視点で作品に触れると、また味わいが変わるかも知れません。とっても面白そうだからそんな文字のお仕事あったら誰かください(笑)。

 

 

理屈ではなく、もっと体で感じる部分も大切に育んで行きたいわたしです。

 



あ、これも。

 http://jawjawjezebel.hatenablog.com/entry/2017/04/22/180926 

 



微笑合掌

【しゅらよ】

※たまにタイトルに【 】が付いてるときは詩です。



かばう うばう うつろう いのち

ちかい いこい いきづく いのり

おもい いたい うまれる いかり

かのちより このちへと とどろかす じびかり とともに

せまりくるものは あらひとの いかづち

きたにみなみに なき わめき にげまどう たみあれば

いって こわがらなくてもよい と いうか

 

しゅらよ おしえてください わたくしたちは なにゆへに

 

 

 

 

おろか