じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

アートへの考察① 本質的宗教観の復興

~人と動物を分かつもの~

 

※アートなお友だちができたので書いてみましたよ。



学者がテレビで言いました。

「発掘で、類人猿が死んだ仲間に花を手向けたものを発見した時代から類人猿は【人】とされた。」


・・・死後の概念、つまり【宗教観】こそが動物とわたくし達を分かち、人たらしめるものだと。宗教観ってなあに?

 


これは大いに議論しうるテーマであるかもだけど、わたくしにとっては

 

宗教観=【畏敬(畏怖)の昇華】

 

であります。

 


⚫身の危険(ケガ、死、病、飢え)

⚫自分の力では抵抗できないもの(天変地異、喪失)

に対しての恐れや悲しみは動物にもあるけどそこからもう一歩踏み込んで、それらとうまく共存していくためのツールこそが【宗教観】であるとわたくしは考えます。

 

人々は自然や目に見えぬ力を神と位置づけ太古から信仰してきました。神を讃えるため、その怒りを鎮めるため、またその加護を得るために供物や祈りを捧げました。食物や家畜、生贄、そして祈りや歌や踊り。

 

以前より、洋の東西を問わず芸術の起源は宗教であり、また極めて行っても宗教(美術)へ至るような印象がわたくしにはあります(捧げる対象が王族である時代もありますが民衆にとっての神的な存在であると思います。神格化とかもあるし)。

 

あくまで個人の意見ですが、現代の【宗教観】は一般社会においては文化の発展とともに形骸化してしまった気がします(宗教そのものや団体を指してはおりません)。外国のことはよく知りませんが日本では当たり前のようにお葬式や結婚式、通過儀礼、はたまた海外の宗教行事を《記念のため》にとりおこなっている感じを受けるのです。

 


人里にいれば

体が傷ついて動けなくなることは稀です。

付き合いが減り、死にゆく人を見ることは稀です。

病で苦しむことは稀です。

飢えに苦しむことは稀です。


自分が目の当たりにしないがためにわたくしはそう思うのです。決して他人事では無い筈なのにね。

 


太古に比べて苦しみは「見えなく」なりました。

幸せなことです。

 

だから、

それに伴い、

 

アートは衰退した気がするのです。

 

 

神の大きさと芸術の重さは比例する。

ぶしつけな言い方だけれども『宗教観なき芸術』は、民衆の慰めとしてのみ存在している。わたくしたちは苦しみや恐れだけはしっかり受け継いだまま【畏敬】を失ってしまった。アートは元来、もっと荘厳な存在ではないのかしら。

 

 

 

芸術を神へ帰す、宗教とアートの融合。

今年は舞台を介したパフォーマンスをしたいと思っていて、そんな表現ができたらと考えている日々です。

 

 

 

 

微笑合掌