じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

続報《じゅんこダサいダサいキャンペーン》

 昨日のつづき。

たくさんスタンプもらいました。

箇条書きで殴り書き感満載なリストだったけど皆さん読んでくれた。

 

 昨日の↓

http://jawjawjezebel.hatenablog.com/entry/2017/05/11/192237

 

 

始めに言っておきます。

読んでくださった方々、感謝しかないです。軽い気持ちで読んで不快になった方もいると思います。今日のブログもおもんないと思います。いつものわたしなら平謝るし、今も「申し訳・・・」が喉まで来てます。でも謝んないのです。わたしがわたしを認めるために必要なプロセス。だからどうぞ自己責任でお願いします。。。

 

 

リストを出す時「ほんとに出すの?ほんとにいいの?つか同情されようとしてない?フォロー減るよ?この後に記事書いても説得力減るよ?キャラ悪くなるよ?肌断食カンケーなくね?そもそも@使って何をしたい人なのよ?登録者を私物化してない?そこまでお前のファンいねーよ?」と思ってドキドキした(いやマジでそうなんだけど)。

 

 

で、

 

 

で、

 

 

「感想や励ましはいらない」っていってたのにメッセージ来た。とっても優しくされた。

 

本当に本当にありがとうしかないんだけど、「大丈夫だよ」って励まされたり「大好きだよ」って言われたことが(凄すぎる!神!)嬉しい反面、実は心のどこかで受け取れない私がいたの(・・・今書いててびっくりして自分に引いてる)。

 

振り返ってみて、それはたぶん今回『自分をいじめるために嫌われたい気持ちがあった』のと『実は自分の中で過去の事になっているって自覚がある』からなんだと思った。あのリストは長年、上手く行かない理由や言い訳として大事に大事に使って来た【拠り所たち】だったの(ブログには出さないと思う)。もちろん今のわたしを形成する重要な出来事ではあったのだけど、思ってた以上にもう出涸らしなんだな。たぶん。

 

始めはこんなことして何になるのかわからなかったけど「出したい」って思って。実際、出さなきゃ分からないことが沢山あった。そう、良い実験になりました。

 

 

【持っていると気持ちの悪い自分の短所や過去を開示すると】

 

➡隠し事感が無くなり、すっきりする(どーでもよくなる)

 

➡でも本質はそこじゃないと気付く

 

➡じゃあ自分を堰き止めているものはなんだろうと改めて探求する(いままでの言い訳が通用しない!)

 

➡さらに隠れてた根っこの部分が見えてくる

 

※ループするごとに欲求がクリアになっていく。

 

↑こんな感じかしら?

 

 

ありがたいことに今回、底までつついてくれた人がいて(メンタル勉強してる人ってみんなイケてるな!)、今まで自分では当たり前と思っていたのだけど、頑なに我慢して抑え込んでいたある事柄が見えました。それはね、「人言わなくていい」ものだから「自分を見てあげて」って言われて憑き物が落ちた気分。毎回荒治療なわたしのクリーンアップだけど、自分のペースで行きつ戻りつ【らしさ】に近づいているみたいです。元気になってきたよ😃

 

報告おわり。

 

みんなラヴです。

⦅じゅんこダサいダサいキャンペーン⦆

こんにちは。

 

「そんなに無理に自分と向き合わなくっていいんだよ」

 

ってお友達が言ってくれた。

 

 

まだまだあった

《じゅんこダサいダサいリスト》

ここに貼ろうかとも思ったんだけど、あとに残ったら嫌だなってまだ思うからLINE@で見てくれる人だけに送ってみようと思います。

 

感想も励ましもいらないの。じぇんじぇん関係ない誰かがそっと知っておいてくれたら嬉しい。

 スタンプくれたら送ります。

じゅんこわたなべの公式LINE@

ID:@ube0629o

(頭の@を忘れないで入れてね。)

 

https://line.me/R/ti/p/%40ube0629o

膜を破ると幕が上がる仕掛け

私が頑張っていることは誰よりも私が良く知っている。

誰にも負けないくらい必死になって走ってきた。

でも、それももう終わる。

 

心の奥底でずっと生きていることを許されたかった。みんなと同じができない。みんなとちがう。みんなと仲良くなれない。子どもの時から子どもが嫌い。なのにちっとも強くなれない自分がほんとは嫌いだった。

 

できないものはできないし、やりたくないことはやりたくない。やる理由のわからないことをやらせられることにウンザリしていたし、今もしている。寄り添ってもらえないから、理由を説明してもらえないからどうやったら「やる理由を見つけられるか」どうやったら「好きになるか」を考えて行動して、それでも追い詰められたら「理由を見つけられないわたしが悪いのだ」と、いつしか我慢して飲み込むようになった。どんなに社会を恨んでも社会に順応しなければ生きては行かれない。

 

これまで、不十分でも「今できる精一杯」をしたつもりだった。私のできる範囲での精一杯。だけどそこに自分が価値を見出せなかった。「これだけやったのだから」という自己満足だけで

 

お金も

社会的評価も

資格も

手元に残るものは何もない。そう思ってる。

 

楽しんでいろんなものにトライしてきたけど、ほんとうは少し違った。どうやったら自分の土俵を出ずに「未婚」や「子なし」に並べるかという劣等感の回避だった。

 

ずっとずっと苦しかった。

子どもの時からずっと。

でも、それが「私」だった。

 

私は自分を傷つけるために生きて来た。

それに気付いた。

そうしなさいと言われて育った。嘘じゃない。

幸せそうな人をみるとざわつく、

「嫌い」や「苦手」を声高に叫ぶ人をみるとざわつく、

結婚の写真を人にみせる人にざわつく、

子どもが欲しいという人にざわつく、

こんなに楽ちんに生きていますという人にざわつく。

 

うらやましいの。

とてもとてもうらやましいの。

 

嬉しい事があったとき、とても感謝して幸せになる。でも、自分が幸せでいることをいまいち許せないから同時に不安になる。

「嫌い」や「苦手」を私が言い始めるとジャッジがきつすぎて確実に人も自分も傷つける。

幸せな結婚の夢が破れて「結婚では幸せにならない」と決めたから幸せな行事と思っている人が気持ち悪い。

子どもが欲しくなかったけど恐くて堕ろせなかった。産むと言ったら1ヶ月で解雇された。働かないと実家には住めない。当時宗教団体に献金していたので一人で産んで一人で育てるためには資金が足りなかった。遅かれ早かれ子どもと心中するか餓死するしかないと思ったから生きるために結婚した。死ぬのが怖かった。

だからせめて、このレールの上で褒められる生き方をしようと思った。以降はそういう選択をしてきた。

でも自分からは逃げられないからこんなにしんどい思いするくらいなら早くに死んじゃえばよかったと頭をよぎることが(ほんとにたまにだけど)いまだにある。

 

全部、全部、思い込み。

そうやって可哀想がっていないと自分を愛せない。

まだだめだ、といじめていないと、

もっとだせ、とえぐっていないと

 

 

悪い事をしているような気になる。

 

 

でも、それももう終わる。

「しなくていい」って分かったから。

 

 

新しい事に向かい始めたからまた勝手にクリーンアップが起きていて、いろいろ掘り下げて向かい合ううちにやっとたどりついたの。

 

 

「好き」だけで生きていいって。

 

 

バカじゃないの、はじめからそうよって思う人もいるんだろうけど言わないでね、泣いちゃうから(笑)。私はね、崖を登らないとここに来れなかったの。

 

 

認めたくないことばかり。

褒めたくないことばかり。

好き勝手やって叱られているのに、またそんなこと言い出すの?と言われそうなことばかり。

 

 

手伝う気が無いならほっておいて。

私は何者でもない。

みんなとおなじでみんなとちがう。

ずっと、ここにいるようでここにいなかった。

 

 

 

 

 

 

 だからね、もう、いいかげん生きることをゆるします。

と、いう自分の為の報告。

アートへの考察② 音と詩と舞 ~作曲と振付~

 卵が先かひよこが先か。

 

 

二つ以上の要素が絡まる作品は作り手によって流儀があるようです。

知人のソングライターは歌を作る際、音から作って詞をあてると言います。しかしながら、制約のある作詞になるので、自由に書く詩に比べ「内容が薄くなっちゃう」のだそうな。

わたしも他で作詞を頼まれたことがあるのだけど、音に当てはめるためにはまず「節(ふし)」をとるセンスが問われるな、と思いました。短い単語を無理に伸ばして曲と合わせたり曲調を無視して早口に詰め込んでは曲も詞も良さが半減してしまう(先に詩を書いて後から曲をつけるとだいたいそうなっちゃうので聞いたらどっちを先に作ったか分かる人には分かる)。

 

決まったメロディーとテーマに嵌めていく作業は俳句や短歌のようでわたしは比較的得意な分野です。七五調にしとけば大体嵌まるのは不思議。

 

でもカッコよいか、伝わるか、は別問題。例えば普通に歌手が歌う曲とミュージカル楽曲では単語の重量も違うのですよね。一般の楽曲ならBGMで心地よく聴けたりカラオケで歌いやすくないと大衆受けしないでしょうし、ミュージカルの曲で抽象的な表現だと聞き手に刺さらない。

 

ちなみにドリカムの吉田美和さんは「詞と曲が同時に降りる」のだそうな。天才っているのね(笑)と思います。わたし、歌も好きなので曲が書ける人に憧れます。

 

 

一方、最近わたしは舞台を使ったパフォーマンスをしたくて色んな方に助言を頂いているのだけど、とある舞踊家の先生は振付について「完全に音が先」って仰ってました。それも「必要な時に良い楽曲が降りて来る(ように見つかる)」のだそう。もうなんか愛されてらっしゃる。わたしは自分の表現したいものを固めてから楽曲を決めようと思っていたのだけど、理屈より感覚に頼った方が良いものができるのかも知れませんね。いろんなタイプの方がいるのだろうけど。

 

 

パフォーマンス(LIVE)にとって音って一番大切な要素なのかもね。何を今更・・・なんだけども二人のお話を聞いて、場の空気を作るのは視覚や言語ではないのかもって思いました。

 

 

音楽は香り、

視覚は味、

言語は原材料、

 

みたいなことかしら、と。帰り道の焼き鳥屋と同じ。

 

屋台は見えないけど匂いで惹きつける、

食べたら美味しい、

え?そんな高いの?あー国産なんだどうりで。

 

みたいな。意味が解るのは一番最後。

 

 

悔しいけれど詞は最後のお役って感じかもしれないですね。舞踊に関しては必ずしも必要ないし(しいて言えば題名やテーマかしらね)。作品にとってメッセージは根幹だし大本なのだけど、受け取りやすい形状ではない。どのように訴えていくかの部分で「MC」だったり「パンフレット」だったり「アナウンス」だったり「歌詞カード」だったり使い分けするのね。ふむふむ。そんな視点で作品に触れると、また味わいが変わるかも知れません。とっても面白そうだからそんな文字のお仕事あったら誰かください(笑)。

 

 

理屈ではなく、もっと体で感じる部分も大切に育んで行きたいわたしです。

 



あ、これも。

 http://jawjawjezebel.hatenablog.com/entry/2017/04/22/180926 

 



微笑合掌

【しゅらよ】

※たまにタイトルに【 】が付いてるときは詩です。



かばう うばう うつろう いのち

ちかい いこい いきづく いのり

おもい いたい うまれる いかり

かのちより このちへと とどろかす じびかり とともに

せまりくるものは あらひとの いかづち

きたにみなみに なき わめき にげまどう たみあれば

いって こわがらなくてもよい と いうか

 

しゅらよ おしえてください わたくしたちは なにゆへに

 

 

 

 

おろか

じゅんこ考案 【魂タイプ別分類(仮)】

占いや診断で人をカテゴライズして量る技法はそれこそ原始のころからあるのかも知れないけど、そういうものを否定したところから現代心理学は始まっているのだと聴きました。

 

でも、未だに夢判断や占いが《無くならないどころか鮮やかさを増している》のはそれによってヒントや生きる力を得る人がいるからなんだと思います。それはそれ、と住み分けができれば良いのよね。カウンセリングでも占いでもちゃんとした人は「絶対」とか「必ず」とかいう単語は気を付けて使っているでしょうし。

 

わたくしは、なんとなくね、後述のようなものがある気がするのですよ。余興と思って読んでもらえたら嬉しいのです。

 

わたくしのように記憶がある人はあれなのですが(笑)、輪廻があると仮定してその回数の多さとタイプが比例する気がするんだけど、善し悪しではないの。 

 

 

【魂タイプ別分類】

生き方や価値観を大きく3つのタイプに分けてみましたよ。これはもう感じ方なんだけど表に出してる部分と根っこが違う人もいるから注意が必要ね。経験によって程度は変わるもののタイプは一生同じ気がします。自分と合わないタイプをパートナーや顧客にすると疲れちゃうことがあります。ビジネスしてる人は打ち出しの参考になったらいいなあ。

 

 

タイプ① 天の人 :

地頭が良く、一般に比べ物事を「より多く」「より早く」「より深く」理解し悟ることができる(知識・美・観念など)。更に他人にそれらの伝達や啓蒙を試みる傾向がある。神様的な感覚の持ち主。人の気配を感じない静かな環境や、制限・規制のある環境を好む。対極にあたる森の人が苦手。

クローズなコミュニティー、高額で少人数もしくは単発のセミナーなどがはまる。キーワード『あなただけ』『特別』『○○限定』。

 

 

➡お悩みポイント 気難しい面があり大勢と分かり合えない。自分が素晴らしいと思う主張やイデオロギーが伝えきれない苦しみ。コミュニケーションのジレンマにさいなまれることが引き鉄となり、集団と距離が開き孤立しがち。孤高なイメージを勝手に持たれる。活動的で開拓心があるがワンマンになりがち。

 

 

タイプ② 里の人 :

視点がフラットなため幅広い種類の人と交流できる(天の人には憧れ、森の人には親しみを感じる、など)。「理解の及ばないもの」「予測できないもの」「分からないもの」を放っておくことができる。憧れや嫌悪を持ちながらもその感情に溺れずに状況判断をすることができる。人間らしい感覚の持ち主。活気があって人の温もりを感じる環境を好む。

ある程度共通項のあるコミュニティー、安過ぎず参加しやすい金額の継続セミナーやスクールがはまる。キーワード『〇は古い』『みんなが使ってる』『売れてる』。

 

➡お悩みポイント 自己表現が苦手で空気を重んじてしまう。理想の環境や姿を手に入れられないことにジレンマを感じ自分を責めがち。他人とは遠すぎず近すぎず「適度な」距離が欲しいがバランスが難しい。人目を気にするのでチャレンジが難しい。

 

 

タイプ③ 森の人 :

周囲や規範に囚われず、心のまま自由に生きることができる。自身の背景や環境に左右されない野心を持つことができる。向上するエネルギー値が高く、団結するのがうまい。チームプレー。野性的な感覚の持ち主。解放的な空間、早朝や深夜の街、人のいない学校など支配欲を刺激する環境を好む。

オープンで間口の広い自由なコミュニティー、共通項のない合コン、異業種交流。ワンコイン系、少額の体験やお試し企画がはまる。キーワード『安い』『簡単』『誰でも』。

 

➡お悩みポイント キレやすい。元来は他人に偏見が無いが相手の態度で立ち位置を決めるため敵対すると尾を引いてしまう。ゆえに以降は経験値でカテゴライズ、判断しがち。純粋なので思い込みが激しく、思い通りにならない事柄があると苦しむ。優位性を重んじるが群れで行動しがち。議論や思考、前知識が必要な案件は苦手。興味がわかないアカデミックな内容に嫌悪感を示す。

 

 

 

・・・それぞれのタイプでも成熟度があって、たとえば①天の人タイプで成熟度が低いと理屈で人を負かせて優位に立とうとしたり、引きこもったり、世を儚みます。はたまた成熟度の高い③森の人タイプはバラエティー豊かな独自のコミュニティーを展開して人同士を繋げたり、人の力を借りて戦略を立て問題解決します。

 

それぞれの思想が傾くと①天の人タイプは単独犯(万引き、レイプ、通り魔、ストーカーなど)の傾向。③森の人タイプは集団による犯罪(ねずみ講、リンチ、輪姦)の傾向。②里の人タイプは主観的に直接原因がある相手限定の単独犯罪に傾向がありそうな気がします。

 

 

みんなはどれかな?

※この分類はあくまで個人的な意見ですよ(笑)。

アートへの考察① 本質的宗教観の復興

~人と動物を分かつもの~

 

※アートなお友だちができたので書いてみましたよ。



学者がテレビで言いました。

「発掘で、類人猿が死んだ仲間に花を手向けたものを発見した時代から類人猿は【人】とされた。」


・・・死後の概念、つまり【宗教観】こそが動物とわたくし達を分かち、人たらしめるものだと。宗教観ってなあに?

 


これは大いに議論しうるテーマであるかもだけど、わたくしにとっては

 

宗教観=【畏敬(畏怖)の昇華】

 

であります。

 


⚫身の危険(ケガ、死、病、飢え)

⚫自分の力では抵抗できないもの(天変地異、喪失)

に対しての恐れや悲しみは動物にもあるけどそこからもう一歩踏み込んで、それらとうまく共存していくためのツールこそが【宗教観】であるとわたくしは考えます。

 

人々は自然や目に見えぬ力を神と位置づけ太古から信仰してきました。神を讃えるため、その怒りを鎮めるため、またその加護を得るために供物や祈りを捧げました。食物や家畜、生贄、そして祈りや歌や踊り。

 

以前より、洋の東西を問わず芸術の起源は宗教であり、また極めて行っても宗教(美術)へ至るような印象がわたくしにはあります(捧げる対象が王族である時代もありますが民衆にとっての神的な存在であると思います。神格化とかもあるし)。

 

あくまで個人の意見ですが、現代の【宗教観】は一般社会においては文化の発展とともに形骸化してしまった気がします(宗教そのものや団体を指してはおりません)。外国のことはよく知りませんが日本では当たり前のようにお葬式や結婚式、通過儀礼、はたまた海外の宗教行事を《記念のため》にとりおこなっている感じを受けるのです。

 


人里にいれば

体が傷ついて動けなくなることは稀です。

付き合いが減り、死にゆく人を見ることは稀です。

病で苦しむことは稀です。

飢えに苦しむことは稀です。


自分が目の当たりにしないがためにわたくしはそう思うのです。決して他人事では無い筈なのにね。

 


太古に比べて苦しみは「見えなく」なりました。

幸せなことです。

 

だから、

それに伴い、

 

アートは衰退した気がするのです。

 

 

神の大きさと芸術の重さは比例する。

ぶしつけな言い方だけれども『宗教観なき芸術』は、民衆の慰めとしてのみ存在している。わたくしたちは苦しみや恐れだけはしっかり受け継いだまま【畏敬】を失ってしまった。アートは元来、もっと荘厳な存在ではないのかしら。

 

 

 

芸術を神へ帰す、宗教とアートの融合。

今年は舞台を介したパフォーマンスをしたいと思っていて、そんな表現ができたらと考えている日々です。

 

 

 

 

微笑合掌