じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

膜を破ると幕が上がる仕掛け

私が頑張っていることは誰よりも私が良く知っている。

誰にも負けないくらい必死になって走ってきた。

でも、それももう終わる。

 

心の奥底でずっと生きていることを許されたかった。みんなと同じができない。みんなとちがう。みんなと仲良くなれない。子どもの時から子どもが嫌い。なのにちっとも強くなれない自分がほんとは嫌いだった。

 

できないものはできないし、やりたくないことはやりたくない。やる理由のわからないことをやらせられることにウンザリしていたし、今もしている。寄り添ってもらえないから、理由を説明してもらえないからどうやったら「やる理由を見つけられるか」どうやったら「好きになるか」を考えて行動して、それでも追い詰められたら「理由を見つけられないわたしが悪いのだ」と、いつしか我慢して飲み込むようになった。どんなに社会を恨んでも社会に順応しなければ生きては行かれない。

 

これまで、不十分でも「今できる精一杯」をしたつもりだった。私のできる範囲での精一杯。だけどそこに自分が価値を見出せなかった。「これだけやったのだから」という自己満足だけで

 

お金も

社会的評価も

資格も

手元に残るものは何もない。そう思ってる。

 

楽しんでいろんなものにトライしてきたけど、ほんとうは少し違った。どうやったら自分の土俵を出ずに「未婚」や「子なし」に並べるかという劣等感の回避だった。

 

ずっとずっと苦しかった。

子どもの時からずっと。

でも、それが「私」だった。

 

私は自分を傷つけるために生きて来た。

それに気付いた。

そうしなさいと言われて育った。嘘じゃない。

幸せそうな人をみるとざわつく、

「嫌い」や「苦手」を声高に叫ぶ人をみるとざわつく、

結婚の写真を人にみせる人にざわつく、

子どもが欲しいという人にざわつく、

こんなに楽ちんに生きていますという人にざわつく。

 

うらやましいの。

とてもとてもうらやましいの。

 

嬉しい事があったとき、とても感謝して幸せになる。でも、自分が幸せでいることをいまいち許せないから同時に不安になる。

「嫌い」や「苦手」を私が言い始めるとジャッジがきつすぎて確実に人も自分も傷つける。

幸せな結婚の夢が破れて「結婚では幸せにならない」と決めたから幸せな行事と思っている人が気持ち悪い。

子どもが欲しくなかったけど恐くて堕ろせなかった。産むと言ったら1ヶ月で解雇された。働かないと実家には住めない。当時宗教団体に献金していたので一人で産んで一人で育てるためには資金が足りなかった。遅かれ早かれ子どもと心中するか餓死するしかないと思ったから生きるために結婚した。死ぬのが怖かった。

だからせめて、このレールの上で褒められる生き方をしようと思った。以降はそういう選択をしてきた。

でも自分からは逃げられないからこんなにしんどい思いするくらいなら早くに死んじゃえばよかったと頭をよぎることが(ほんとにたまにだけど)いまだにある。

 

全部、全部、思い込み。

そうやって可哀想がっていないと自分を愛せない。

まだだめだ、といじめていないと、

もっとだせ、とえぐっていないと

 

 

悪い事をしているような気になる。

 

 

でも、それももう終わる。

「しなくていい」って分かったから。

 

 

新しい事に向かい始めたからまた勝手にクリーンアップが起きていて、いろいろ掘り下げて向かい合ううちにやっとたどりついたの。

 

 

「好き」だけで生きていいって。

 

 

バカじゃないの、はじめからそうよって思う人もいるんだろうけど言わないでね、泣いちゃうから(笑)。私はね、崖を登らないとここに来れなかったの。

 

 

認めたくないことばかり。

褒めたくないことばかり。

好き勝手やって叱られているのに、またそんなこと言い出すの?と言われそうなことばかり。

 

 

手伝う気が無いならほっておいて。

私は何者でもない。

みんなとおなじでみんなとちがう。

ずっと、ここにいるようでここにいなかった。

 

 

 

 

 

 

 だからね、もう、いいかげん生きることをゆるします。

と、いう自分の為の報告。

アートへの考察② 音と詩と舞 ~作曲と振付~

 卵が先かひよこが先か。

 

 

二つ以上の要素が絡まる作品は作り手によって流儀があるようです。

知人のソングライターは歌を作る際、音から作って詞をあてると言います。しかしながら、制約のある作詞になるので、自由に書く詩に比べ「内容が薄くなっちゃう」のだそうな。

わたしも他で作詞を頼まれたことがあるのだけど、音に当てはめるためにはまず「節(ふし)」をとるセンスが問われるな、と思いました。短い単語を無理に伸ばして曲と合わせたり曲調を無視して早口に詰め込んでは曲も詞も良さが半減してしまう(先に詩を書いて後から曲をつけるとだいたいそうなっちゃうので聞いたらどっちを先に作ったか分かる人には分かる)。

 

決まったメロディーとテーマに嵌めていく作業は俳句や短歌のようでわたしは比較的得意な分野です。七五調にしとけば大体嵌まるのは不思議。

 

でもカッコよいか、伝わるか、は別問題。例えば普通に歌手が歌う曲とミュージカル楽曲では単語の重量も違うのですよね。一般の楽曲ならBGMで心地よく聴けたりカラオケで歌いやすくないと大衆受けしないでしょうし、ミュージカルの曲で抽象的な表現だと聞き手に刺さらない。

 

ちなみにドリカムの吉田美和さんは「詞と曲が同時に降りる」のだそうな。天才っているのね(笑)と思います。わたし、歌も好きなので曲が書ける人に憧れます。

 

 

一方、最近わたしは舞台を使ったパフォーマンスをしたくて色んな方に助言を頂いているのだけど、とある舞踊家の先生は振付について「完全に音が先」って仰ってました。それも「必要な時に良い楽曲が降りて来る(ように見つかる)」のだそう。もうなんか愛されてらっしゃる。わたしは自分の表現したいものを固めてから楽曲を決めようと思っていたのだけど、理屈より感覚に頼った方が良いものができるのかも知れませんね。いろんなタイプの方がいるのだろうけど。

 

 

パフォーマンス(LIVE)にとって音って一番大切な要素なのかもね。何を今更・・・なんだけども二人のお話を聞いて、場の空気を作るのは視覚や言語ではないのかもって思いました。

 

 

音楽は香り、

視覚は味、

言語は原材料、

 

みたいなことかしら、と。帰り道の焼き鳥屋と同じ。

 

屋台は見えないけど匂いで惹きつける、

食べたら美味しい、

え?そんな高いの?あー国産なんだどうりで。

 

みたいな。意味が解るのは一番最後。

 

 

悔しいけれど詞は最後のお役って感じかもしれないですね。舞踊に関しては必ずしも必要ないし(しいて言えば題名やテーマかしらね)。作品にとってメッセージは根幹だし大本なのだけど、受け取りやすい形状ではない。どのように訴えていくかの部分で「MC」だったり「パンフレット」だったり「アナウンス」だったり「歌詞カード」だったり使い分けするのね。ふむふむ。そんな視点で作品に触れると、また味わいが変わるかも知れません。とっても面白そうだからそんな文字のお仕事あったら誰かください(笑)。

 

 

理屈ではなく、もっと体で感じる部分も大切に育んで行きたいわたしです。

 



あ、これも。

 http://jawjawjezebel.hatenablog.com/entry/2017/04/22/180926 

 



微笑合掌

【しゅらよ】

※たまにタイトルに【 】が付いてるときは詩です。



かばう うばう うつろう いのち

ちかい いこい いきづく いのり

おもい いたい うまれる いかり

かのちより このちへと とどろかす じびかり とともに

せまりくるものは あらひとの いかづち

きたにみなみに なき わめき にげまどう たみあれば

いって こわがらなくてもよい と いうか

 

しゅらよ おしえてください わたくしたちは なにゆへに

 

 

 

 

おろか

じゅんこ考案 【魂タイプ別分類(仮)】

占いや診断で人をカテゴライズして量る技法はそれこそ原始のころからあるのかも知れないけど、そういうものを否定したところから現代心理学は始まっているのだと聴きました。

 

でも、未だに夢判断や占いが《無くならないどころか鮮やかさを増している》のはそれによってヒントや生きる力を得る人がいるからなんだと思います。それはそれ、と住み分けができれば良いのよね。カウンセリングでも占いでもちゃんとした人は「絶対」とか「必ず」とかいう単語は気を付けて使っているでしょうし。

 

わたくしは、なんとなくね、後述のようなものがある気がするのですよ。余興と思って読んでもらえたら嬉しいのです。

 

わたくしのように記憶がある人はあれなのですが(笑)、輪廻があると仮定してその回数の多さとタイプが比例する気がするんだけど、善し悪しではないの。 

 

 

【魂タイプ別分類】

生き方や価値観を大きく3つのタイプに分けてみましたよ。これはもう感じ方なんだけど表に出してる部分と根っこが違う人もいるから注意が必要ね。経験によって程度は変わるもののタイプは一生同じ気がします。自分と合わないタイプをパートナーや顧客にすると疲れちゃうことがあります。ビジネスしてる人は打ち出しの参考になったらいいなあ。

 

 

タイプ① 天の人 :

地頭が良く、一般に比べ物事を「より多く」「より早く」「より深く」理解し悟ることができる(知識・美・観念など)。更に他人にそれらの伝達や啓蒙を試みる傾向がある。神様的な感覚の持ち主。人の気配を感じない静かな環境や、制限・規制のある環境を好む。対極にあたる森の人が苦手。

クローズなコミュニティー、高額で少人数もしくは単発のセミナーなどがはまる。キーワード『あなただけ』『特別』『○○限定』。

 

 

➡お悩みポイント 気難しい面があり大勢と分かり合えない。自分が素晴らしいと思う主張やイデオロギーが伝えきれない苦しみ。コミュニケーションのジレンマにさいなまれることが引き鉄となり、集団と距離が開き孤立しがち。孤高なイメージを勝手に持たれる。活動的で開拓心があるがワンマンになりがち。

 

 

タイプ② 里の人 :

視点がフラットなため幅広い種類の人と交流できる(天の人には憧れ、森の人には親しみを感じる、など)。「理解の及ばないもの」「予測できないもの」「分からないもの」を放っておくことができる。憧れや嫌悪を持ちながらもその感情に溺れずに状況判断をすることができる。人間らしい感覚の持ち主。活気があって人の温もりを感じる環境を好む。

ある程度共通項のあるコミュニティー、安過ぎず参加しやすい金額の継続セミナーやスクールがはまる。キーワード『〇は古い』『みんなが使ってる』『売れてる』。

 

➡お悩みポイント 自己表現が苦手で空気を重んじてしまう。理想の環境や姿を手に入れられないことにジレンマを感じ自分を責めがち。他人とは遠すぎず近すぎず「適度な」距離が欲しいがバランスが難しい。人目を気にするのでチャレンジが難しい。

 

 

タイプ③ 森の人 :

周囲や規範に囚われず、心のまま自由に生きることができる。自身の背景や環境に左右されない野心を持つことができる。向上するエネルギー値が高く、団結するのがうまい。チームプレー。野性的な感覚の持ち主。解放的な空間、早朝や深夜の街、人のいない学校など支配欲を刺激する環境を好む。

オープンで間口の広い自由なコミュニティー、共通項のない合コン、異業種交流。ワンコイン系、少額の体験やお試し企画がはまる。キーワード『安い』『簡単』『誰でも』。

 

➡お悩みポイント キレやすい。元来は他人に偏見が無いが相手の態度で立ち位置を決めるため敵対すると尾を引いてしまう。ゆえに以降は経験値でカテゴライズ、判断しがち。純粋なので思い込みが激しく、思い通りにならない事柄があると苦しむ。優位性を重んじるが群れで行動しがち。議論や思考、前知識が必要な案件は苦手。興味がわかないアカデミックな内容に嫌悪感を示す。

 

 

 

・・・それぞれのタイプでも成熟度があって、たとえば①天の人タイプで成熟度が低いと理屈で人を負かせて優位に立とうとしたり、引きこもったり、世を儚みます。はたまた成熟度の高い③森の人タイプはバラエティー豊かな独自のコミュニティーを展開して人同士を繋げたり、人の力を借りて戦略を立て問題解決します。

 

それぞれの思想が傾くと①天の人タイプは単独犯(万引き、レイプ、通り魔、ストーカーなど)の傾向。③森の人タイプは集団による犯罪(ねずみ講、リンチ、輪姦)の傾向。②里の人タイプは主観的に直接原因がある相手限定の単独犯罪に傾向がありそうな気がします。

 

 

みんなはどれかな?

※この分類はあくまで個人的な意見ですよ(笑)。

アートへの考察① 本質的宗教観の復興

~人と動物を分かつもの~

 

※アートなお友だちができたので書いてみましたよ。



学者がテレビで言いました。

「発掘で、類人猿が死んだ仲間に花を手向けたものを発見した時代から類人猿は【人】とされた。」


・・・死後の概念、つまり【宗教観】こそが動物とわたくし達を分かち、人たらしめるものだと。宗教観ってなあに?

 


これは大いに議論しうるテーマであるかもだけど、わたくしにとっては

 

宗教観=【畏敬(畏怖)の昇華】

 

であります。

 


⚫身の危険(ケガ、死、病、飢え)

⚫自分の力では抵抗できないもの(天変地異、喪失)

に対しての恐れや悲しみは動物にもあるけどそこからもう一歩踏み込んで、それらとうまく共存していくためのツールこそが【宗教観】であるとわたくしは考えます。

 

人々は自然や目に見えぬ力を神と位置づけ太古から信仰してきました。神を讃えるため、その怒りを鎮めるため、またその加護を得るために供物や祈りを捧げました。食物や家畜、生贄、そして祈りや歌や踊り。

 

以前より、洋の東西を問わず芸術の起源は宗教であり、また極めて行っても宗教(美術)へ至るような印象がわたくしにはあります(捧げる対象が王族である時代もありますが民衆にとっての神的な存在であると思います。神格化とかもあるし)。

 

あくまで個人の意見ですが、現代の【宗教観】は一般社会においては文化の発展とともに形骸化してしまった気がします(宗教そのものや団体を指してはおりません)。外国のことはよく知りませんが日本では当たり前のようにお葬式や結婚式、通過儀礼、はたまた海外の宗教行事を《記念のため》にとりおこなっている感じを受けるのです。

 


人里にいれば

体が傷ついて動けなくなることは稀です。

付き合いが減り、死にゆく人を見ることは稀です。

病で苦しむことは稀です。

飢えに苦しむことは稀です。


自分が目の当たりにしないがためにわたくしはそう思うのです。決して他人事では無い筈なのにね。

 


太古に比べて苦しみは「見えなく」なりました。

幸せなことです。

 

だから、

それに伴い、

 

アートは衰退した気がするのです。

 

 

神の大きさと芸術の重さは比例する。

ぶしつけな言い方だけれども『宗教観なき芸術』は、民衆の慰めとしてのみ存在している。わたくしたちは苦しみや恐れだけはしっかり受け継いだまま【畏敬】を失ってしまった。アートは元来、もっと荘厳な存在ではないのかしら。

 

 

 

芸術を神へ帰す、宗教とアートの融合。

今年は舞台を介したパフォーマンスをしたいと思っていて、そんな表現ができたらと考えている日々です。

 

 

 

 

微笑合掌

愛すべきは「強さ」より「弱さ」

大切なお友達がたくさんいます。

その中の一人に言われました。

 

「あなたは自分を《さらけ出す》ことは良くできているけれど《弱さと向き合う》はできていない気がする」

 

内緒にしていましたが、幼い時から人の中に入るのが嫌いです。横に並ぶのが苦手です。自分から人に興味を持つことが少ないです。上下の関係が楽です。気が付くと人を裁いて測っています。自分が対象になるのを連想するため噂話や悪口を聴くのが苦痛です。指揮系統のない集団が不快です。能力があるのに自己評価が低いため裏返しで自分より出来ない人を必要以上にバカにしてしまう時がありました。

 

そして、少し人が怖いです。

 

 

 

先日、学校で役員決めがありました。わたしは免除対象なので言ってしまえば係わりないのですが皆さんの不安が立ち込め、嫌な時間でした。くじに当たって嫌そうな人を見て

 

「どこかで当たるのだから腹を括れば良いのに」

「なぜ今まで自分からやらないでいたのだろう」

「足掻く姿が《格好悪い》」

 

と思いました。

 

でも、なぜそこに着目してしまうのか帰宅後掘り起こしてみたら、わたしはそう思われたく無くて皆さんと同じになりたくなくて、PTA会長というある意味《ヒエラルキーの頂点》に来たのかも知れないと気付きました。最後まで逃げようとするか、覚悟して飛び込むかはプロセスが違うだけで【不安】という出発点は変わらない。

 

美学や善悪では語るべきではない根元的な部分で、嫌がるその方に投影しわたしはわたし自身を蔑んでいたのです。

 

もちろん、ここに至るまで幾度も試され鍛え上げられ、きっと生半な気持ちでは務まりませんでした。でも、「同じだな」って思います。もし6年間何もしないで済むと約束されていたらきっと飛び込んでいないでしょう。身綺麗にして人前で慣れたように喋るわたしは格好良いかも知れないけれど腹の中は誰よりも臆病で十二分に《格好悪い》です。決して聖人君子ではないのですよ。そこを認めてもっと告白していかないと良くない意味で本当に浮世離れしてしまうと思いました。【なんのためのわたくしか】また試されています。

 

 

この間、離れた土地で「保護者の会」の会長が容疑者となりました。どのような組織かは知りませんが過ちは肩書きや年齢に拘わらず全ての人の肩を叩くものです。擁護する気はありませんが必要以上に囃す気もありません。ただ、人選の重要さを再確認したことと事件を知った全ての人と何を共有できるだろうかと思いを巡らせています。

 

自分の弱さや醜さを手放すためにはそれを自分で愛し、共にそれを愛してくれる誰かが必要な気がします。愛されたければまず、見ていただかなければいけません。今はそう思います。

 

 

 

微笑合掌

長く優しいお説教がありました。

生き方に戸惑う日もあります。

うまく行かなくて、「美」を手放そうと思いました。

 

ここ2年ばかり不安から世俗の欲に引っ張られ、あれよと財を失いました。

強くあれ、美しくあれ、と上を目指し飽和しました。

何が自分に「ふさわしいのか」と、

何が自分に「ここちよいのか」は違う。

 

流れについて行ききれず、心の息が切れました。どこを目指していたのか見失い、自分で選ぶ力も今日はありません。

 

用も取り止めてひたすら眠りこけ、夕暮れにやっと外へ出てうなだれていると《自分様》に強く、強く言われました。下はその内容をまとめたもの。

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その ぐわいへん(外辺、外見)は当体(本質)ではない

みなさまとつながるためのもの

善くつかうこと

善くわかり 知ること

 

ご縁することにいみがある

目にみえる形にとらわれるなかれ

 

金子(金銭)、名声に重きをおくべからず

じゅんこにとって(それらは)まやかしなり

まどうことなかれ

かなしむことなかれ

ただ 生きるだけで善い人

 

 

 

ただ、ただ、生きてそこにおれ、と。

そういえば一見無駄に見えるあれもこれも向こうから呼ばれて縁したのだと自覚していました。

お金はたくさん無くなりました。ご縁と技術は手に入れました。外見を上手く使え、は手放そうとしていたわたしの思いとは逆かも知れないけれど「持っているものを駆使して人様の為にさらに縁しろ、そのための命」と言われた気がします。まだうまく掴めていませんが。

 

もしかしたら、わたしが進んでなにかしなくとも縁するだけで気付きや癒しを得る人がいるのだ、それを認めてそれに努めるようにということなのかしらね。少し泣きました。

 

でも、それって誰でもがきっとそうよね。信じられるかどうかだけが境界線だけれども。

 

 

 

 あ、なにか良い仕事があったらください。

 

 

 

 

微笑合掌