じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

愛の感じ方① ジャッジメント

人を裁く、ということを「ジャッジメント」というのだって。それを減らしたほうが生きやすいのだって。



ジャッジとは

 

あれは良い

これはだめ

 

ということ。思うこと。

 

ふつうじゃないの?あたりまえじゃないの?

世の中ってそうやってできてるし、そうやって習うし、それに司法国家は悪いことしたら捕まるよね?


それで間違ってないのだけど。

だけど。。。

 

 

仮に気になる人がいて、その人とあなたは同じ道を歩んで生きてきていなくてあなたの常識が他の人には非常識になることが(逆も)ある。それはどうしてもそう。世間的にとか法律では、で片付けられない時がある。

 

でね、

 

何かしちゃったことが「初めて」なのか「たまたま」なのか「理由があって」なのか「習慣としていっつも」なのかは確認しないかぎり分からなくて。

 

何かしちゃったことが「他の人の迷惑」になるのか「将来大変」になるのか「自分以外の人には問題ない」のかも確認しなきゃ分からなくて。


でも、いっぺん「わたしとは違う悪い人だ」と思ったらそこがゴールになってしまう。



円滑なコミュニケーションには

 

 あなたが何を感じたか と

なぜそう感じたか   と

相手の目的はなにか  と

それを回避する方法  は


 

を切り離して考えないといけなくて、そこに善悪を持ってきたら答えが見えなくなることが多い。


 

正しい枠に入る人ばかりじゃないし、見えないところで何があったのかは分からない。自分が知らぬ間に枠から外れることだってある。トラブルや時代の流れで突然その枠自体が形を変えてしまうこともある。ジャッジがきついと人に寄り添えないだけでなく、そういう時に対応できない。



人に対しても自分に対してもジャッジは少ない方が軽やかに生きられる。

「あんな人は嫌!」と思っていたら自分もなっていた、という時、ジャッジがきつい人は自分を許せず病んでしまう。

 

 

そういう考え方もあるんですよ、というお話。



 

②につづく。