じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

【分子】

※題名に【 】このカッコがあるときは詩です。

 

 

 

世界の全ては幾つものレイヤーでできている

   

 

私の耳に入るのは

幾つもが重なった音

   

 

私の目に入るのは

幾つもが重なった色

   

 

私の鼻に触れるのは

幾つもが重なった香

   

 

私の心に入るのは

幾つもが重なった物語

   

 

私の愛を呼ぶのは

幾つもの音と

幾つもの色と

幾つもの香と

幾つもの物語が重なった

   

 

ただひとつのあなた

素敵な《江戸しぐさ》

先日の記事にも書いたのだけど

江戸しぐさ》といって江戸商人から始まった慣習があります。



江戸時代は士農工商

侍はさておき、農民や職人は土地を変えても生きていけるのに対して縄張りの強い商人だけは土地を変えられないために助け合いや学び合いによって商売を回して行ったことが興り。



そこからさらに発展して、いかにカッコよく暮らすかの作法が生まれました。




江戸の町は人口密度が高く、気を付けないとぶつかったり、船に乗り損ねたり。また観光客や新参者も多く、気遅れさせないためのさりげない配慮が「あ、カッコいい!俺も次はああやろう」と広まっていったのだとか。

雨の日の路上ですれ違いざま傘を斜めにして通る『傘かしげ』なんかが有名です。


全ての人に尊敬を持って接する

相手に嫌な思いをさせない

いつも明るく気持ちよく接する


・・・それらが『癖』として身に染みていてこそ【江戸っ子】なのだ、というひとつの誇りでした。


その上、

「口酸っぱく教える」
「ダメな奴を排除する」
「テキストを読み込んで学ぶ」

などという無粋なことはご法度で、できる大人を真似るだけが習得方法とされたため詳しい文献は残っていないそうで。

なぜって『あたりまえ』だから。



文化ってこういうことを言うんだなあと知った時鳥肌が立ちました。


平たく言うと《紳士道》みたいなことでしょうか。


商人が9割をしめた江戸の町でいつしか職人たちにも粋な《しぐさ》が広まって町人中に浸透していって。


その全てが、どこまでも【クール】なもので。


図書館で書籍を少し見たけれどもっと知りたいなあと思いました。

 

 
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※イルカ模様の鍔。イルカは隠れキリシタンの隠語という説も。父のものです。こういった芸術の支えに町人の文化水準の高さがあったことは疑う余地がないなあと。

美しい気持ち

自分を責めたくないから

人を責める、

は良くないけど


じゃあ

人を責める代わりに

自分を責める、

が良いってわけじゃない。



人も自分も責めない方法を
確立した方がいい。



そこは認めよう。

 


元々の私達は
もっと大らかで
優しさに満ち溢れ
きっと穏やかで


だけど
偏った教育や
競争や叱責や
寝不足や過労や
偏った栄養が

いつしかそれを捻じ曲げてしまった。

 


寝よう
控えよう
休憩しよう
少しだけ、ズルをしよう

ヒエラルキーを忘れよう



今持っている全てを失ったつもりで一日を過ごして、それでも自分を愛せるか問おう



全ての失敗はヒントで
愛すべき助言で。


そのいら立ちも
その不満も
そのやるせなさや悲しみも
大いなるヒントで。



もっとできることは無かったのだろうか

空の上から自分を見つめて
静かに優しく微笑みながら
寄り添ってみよう


きっと

いらない遠慮や
配慮不足や

言葉足らずや

準備不足があったよね

その時は気付けなかったけど。



「うんうん、そうか。」

と自分の頭を撫でて
その問題は終わりにしよう。

 

 

 

 

微笑合掌

江戸文化とアドラー心理学

今日は少し面白い話。

こないだ若いお嬢さん達に話したらとても喜ばれた江戸文化の話。

 

 
 その前にこちらを紹介

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「嫌われる勇気」

ベストセラーになった本です。

ユダヤ人心理学者アドラーが100年前に提唱したアドラー心理学を元に会話形式で書かれた読みやすい指南書です。

 

 

アドラーは日本で主流となっている有名な心理学者のフロイトユングとはあまり関係が良く無かったこともあり、国内では積極的に学ばれてこなかったと聞きました。

 

 


アドラーが提唱している幸せな生き方は

 

「他者を思いやり、より大きなコミュニティーに貢献すること。その過程で自分の気持ちも押し殺さないこと。」

  

それを、息をするように自然に身につける


《共同体感覚》

 

 が軸になっているそうです。

 

 





全く別件で江戸時代の文化や教育についての本を読んでいたら、どうも


100年前にアドラーが【提唱】したことを

200年前の江戸市民がすでに【実践】していたようだとわかりました。

 

 

時代劇などを見るとその町人のほとんどが飲食店の従業員や芸者、職人といった労働者で一握りの経営者は悪役としてばかり描かれています。しかし、実際の江戸市民は9割方が商人で、後継者に限らず次世代への教育を重んじた彼らこそが町の経済や活気、治安を支えていたようです。

ユダヤ人の多くも所を追われて流浪する中、商人としての教育を財産に多くの富を得たそうです



江戸の人々には客を見抜く目や商才のみならずいかに信用を得ていくかを子どもの頃から徹底して教育し、狭い町に沢山人が溢れていても気持ちよく生活する知恵を「癖」のように身につける『江戸しぐさ』(=江戸人の考え方)がありました。上品で粋で頭脳明晰でおごらない集落を市民が主体的に伝え暮らしていたのです。

 


簡単なところでいうと

 

⚫子どもが一人前になるのは15歳

⚫転んだ人を助ける時は自尊心傷つけないようにしばらく見守ってから

⚫卑屈にならない、偉ぶらない

⚫相手が寛げるように配慮し、それをひけらかさない



そういったような内容ですがユダヤの教えとも合致するのです。

同祖、というと言い過ぎだけどあんまり似てるからどこかでヒントがあったのだと思っています。


そして、外国のものをありがたがるわりに我が国について知らされてないなあ、と改めて思うのですよね。





 

 おまけ


 

そもそもの【江戸】という単語も諸説あり、一説によれば「江戸氏」を名乗る方々が町づくりに貢献したと言われています。

 

 

これ、ヘブライ語だったら面白いなと思って調べたらありました。

 

 


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出典:http://www.historyjp.com/dictionary.asp



 

日本語とヘブライ語神道の起こりから関係しているという先生も。ひふみ祝詞ヘブライ語?なんて。


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 ※諸説あります。

 

ではまた来週笑。

暇か!

あなたが女性だったとしてあなたが「この人だ」思う人が、

 

好きです

素敵です

可愛いです

綺麗です

 

と優しく欲しがってくれたら、たとえ鼻が低くても脚が太くても気にせず歩いて行ける気がしませんか?

 

 

美人になるってそう言う事な気がします。

 

 

普段は


頑張らないと

努力しないと

何かがないから

何かがあるから

 

 と自分の欠点を否定しがちだけど、実はそれらはただの《拠り所》だったりします。 

 

あなたの素敵さって誰が決めるんですか?

 

あなたの事を大好きという人がいたとして、はたしてあなたが嫌うものを「好き」と言えるでしょうか。

 

 

 

否定されて育ったのは「過去」です。

 

 



今から呪いを解きましょう。

 

 



用意はいいですか?







 

さあ、

 







笑って。

 


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お一人様

みんながカップルや家族で行くような場所へ一人で訪れることを『お一人様』と呼ぶのが流行りというよりも当たり前のように歓迎され始めていて。


焼き肉屋さんや遊園地まで、本当は一人で行ってみたいけど人目が少し気になるなあと遠慮しなくて良くなりました。




けれど昔から


お一人様[合戦(かっせん)]


っていうのがあって。




誰も戦ってないのに見えない甲冑を着て

 

「暑い〜、重い〜」

「さては貴様?憎っき仇め。」

「隙きあり!」

 

 て、誰かを斬っている。


合戦、終わりましたよと言われても信じられなくて、仮に合戦がなかったら何をしていいか分からなくて。

戦っている間は命の限りに生きているような気持ちになっていて。



生きているとたまにそういう時があります。

そういう時には美味しい焼き肉でも食べると良いと思います。

おかしな前提

世界は敵でわたしは弱くて。

 


みんなが強く見えたから、「弱さ」という剣でなら人を斬ってもいいと思っていた時期があります。

 

暴力というのは根本的にこんなふうな理論なのかも知れません。

 

「どうしてわたしばっかり」

「どうしていつもこうなるの?」

「だったらもう、こうしてやれ!」


そう思ってしまう時は大体前提が間違ってるような気がします。


おかしな行動や言動をしてしまう時は大抵感情的で、大抵追い詰められています。


そんな小さなことでどうして?

そんな理由でどうして?

一体何が問題なの?


と言われても、当の本人は分かってもらえないこと自体が受け止められない。


わたしたちは同じものを見て同じ世界にいるように思うけれどその人その人、目の数だけ別の世界があるんです。


本人も周囲も知り得ない世界の齟齬があるんです。


ある人が見たら仲の良い親子

ある人が見たら年の差カップ


前提が違っていたら意味は変わります。

だから分からなくって当たり前なんだと思います。