アートへの考察③ 台詞とコミュ能力と言語
「テーブルの上のお醤油をとって頂戴」
と言われて
「はーい」
と返事することや
実際に醤油を手にとって声の主に渡すことができる
・・・という程度の話をしているわけではない。
今日は、
自分にとって一つ一つの単語がどのような「意味」を持つのか、
そこから形成された語群がどのような「メッセージ」を持つのか、
そのことによって聞き手にどのような「行動」を望むのか、
が『個人の言語』だ。
・・・という話をします。
例えば、AさんとBさんでは同じ日本語を用いても発信している内容が違う。
Aさんの『お腹すいた』は
前の食事から時間が経っていて「非常に空腹だ」ということを察して自分の為に早く食事の準備をしてほしい。という言葉。
Bさんの『お腹すいた』は
あなたと「一緒に食事に行きたい」のであなたにも「お腹すいた」と言って(共感して)ほしい。という言葉。
「いや、最初から全部そう言えし!」
・・・わかるよ。でも、日常の会話ってみんな恐ろしいほど自覚していない気がするの。仮に事細かく言ったことでニュアンスが変わってしまうし、良い返事がもらえなくなることもあるよね。わたしにとって言語とは一人ひとり独特の成り立ちを経ている【個人の物語そのもの】なんだ。
わたしは本や戯曲を書く人間、演じる人間はこの辺の微細なところが解るかどうかがそのまんま仕事の評価につながる気がするの。要は読み解けるかどうかで発信の精度が左右されるということ。
気心の知れた人(伝達の失敗を繰り返して、それでも許し合ってラリーを長年続けた相手、)
や
自分と似ている人(もともと持っている言語が近い相手)
と
上手くいくのはそういうことなんじゃないかしら?と思うの。逆もまた然り。
日常の中で『あれ?』と思ったら相手の言語との差異を探って自分の伝えたい内容をかみ砕き【翻訳】しないといつまでも距離が縮まらないよね。
良いコミュニケーションが取れる人って性格云々の前に言語能力が高い。
彼らは
①知ったかぶりしない
②分からないところはその場で聞き返して確認する
③相手の理論を自分の言語に置き換えて「それってつまりこういうこと?」と解釈が合っているかただちに確認する(理解するかは別)
④意味や成り立ちが解るので「なるほど、あなたはそう思うのね」と差異を認められる
対して未開発(苦手)な方々は
①「なんかそれ聴いたことあるかも。へー。。。終」と知らないことはスルー、興味を示さない(深める質問が浮かばない)
②「それ普通の人(自分)は分からないから」と棚に上げて会話を遮断する
③「そんなのはありえない」「そういうことじゃないんだってば」と自分の価値観に無いものを自分の言語に置き換える努力をしない、相手の言語に置き換えられることも不快(意図がわからない)
④意味や成り立ちが解らないので「え?それキモい!」「これってわたしだけ?」となかなか差異を認めない、差異の発見にネガティブ
長年の甲斐あって最近主人がわたしの言語を理解し始めた。お陰でとても生きやすい。
でも、相手が変わったと思うのは【自分が変わったサイン】なんだよね。良い時も悪い時も。逃げなくて良かったなーとやっと思う。わたしにとっては『言語を認める=相手の物語を認める』だから。
もっともっと、日本語を学びたい。言語を操って上手に人に触れていきたい。それがわたしの好きな、【平和】という名の文化。
食事も会話も良く噛んでいただくのは健康な消化のために善い。
微笑合掌