じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

なりたかったもの

子どもの時になりたかったものって、諦めてるだけで本当はずっと変わらない。

   

 

子どもの頃ディズニーの眠れぬ森の美女を絵本で見て。

 

生まれて初めて知ったきらびやかな存在に憧れが止まらなかったのをこの間ふと、思い出し。

 

幼い日、なぜかわたしの実家はお城ではなく狭い平屋で家族の目は黒く鼻も低かった。でもそんなことは1mmもわたしに関係なく、世界が間違ってしまったのだ、と確信していて。


『あなたたち(世界)が間違っていることが(神に)正されない訳がない。あなたたちが力及ばないならわたしがなんとしても正さねばならない』

 

と本気で思って

たり。

 


その次は海外の児童文学をTVアニメで放映していたハウス食品アニメシリーズの【小公女セーラ】に新たな衝撃を受け。


セーラがわたしの特別だったのは、元々富も気品も兼ね揃えた少女であったセーラが不運から没落し、これでもかといじめられながら最後には返り咲き、のみならず敵は失脚するという

 

《勧善懲悪サクセスストーリ》

 

だったからかも知れない。

 

『苦しみながらも美しくあろうとする』姿に感銘したわたしは自分がお城に住んでいない理由をそこに垣間見たわけで(たぶん違うけど笑)。

 

普通の家庭に育ちながらも高貴な世界への憧れは尽きることなく、当時やっと美食ブームにより浸透し始めたテーブルマナーや立ち居振舞いなど独学し続け、

 

『家が貧しくても良い殿方と出会いさえすればいい。机に座った勉強が苦手でも人を見る目や礼儀作法、好かれるテクニックがあれば確実に生きていける』

 

という自負がありました。

 

←ここまでが5年生。

 

今思うと中々面白い子供でした。

 

挫けて忘れてしまったけど、振り返って自分を掘り起こしてみたらこんなに面白い願望が出てきました。

 

これに気付いたら、背骨を曲げずに1食きちんと食べ終える訓練や美しい所作を研究するためいくつもの姿見を備え付けて暮らしたあの頃の生活がとても懐かしく思えて来て。

 

義務だと息苦しくて仕方ないけれどお遊びと思うと普段使わない脳を物凄く使うので楽しく爽快でした。

 

それから食事の作法は食欲(本能)を作法(理性)で処理していくので忍耐力が付きます。これはただの我慢強さではなく

 

言ってはいけない言葉を言わない」

 

「伝え方を選べる」

 

「一歩引いて相手の気持ちを考えられる」

 

という力になります。

 

作法なんて気にしない方も世の中にはいますがどこの国にも貴族の社会には昔からあったものだと思います。目上の方を思いやる他所『様』(よそさま)の国、日本が立場に関わらず大切にして来た美しいスピリットなのではないかしら。

 

不安や忙しさや上手くいかないあんなこんなに負けて、すっかり泥まみれになっていたけれどリプレイしちゃダメなんてこともなく。

 

気持ちを新たにサクセスしていけたらいい。

   

 

あなたのなりたかったものはなあに?