じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

1 洗脳とマインドコントロール③

※わたしの生き方や考え方について質問を受けたのでしばらくコラムを書こうと思います。

 

 

 

相手が望んでいないものを押し付けることは広義での暴力にあたるとわたしは考えています。

 

 

『あなたのため』

 

『あなたに必要だから』

 

『みんなこうしてる』

 

『悪いようにはしない』

 

『信じてくれないのか』

 

 

 

それ、誰が決めるのでしょうか?

 

これらの言葉を聞いたことは誰しもあるように思いますが、わたし自身思い返してみると【自分より下だ】と思われた時に言われて来た気がします。発信者にどんな善意があろうとも信頼関係に依存した稚拙な理論です。

 

偏屈だと思われるでしょうがわたしはこれらの発言に対し必要以上に激しい嫌悪を覚えてしまいます。

 

決めるのはわたしだ、と。

 

 

 

その感覚を分からない人達が一定数いることも知っていますし、結果(望んで無いものを受け入れたことによる喪失感)を知りながらも相手を立てあえて従うこともあります。

 

 

しかしながら、こういった方々は望んだ結果(つまり自分への承認)が得られないと反省どころか往々にしてこちらに非を求めます。目に見える「実績」「経験」「金銭」を与えようとしてくださる方もいるし、大抵はそうなのですがわたしにとっては何物よりも『自主性』『自尊心』が重要なのです。それは激しく傷付きます。誤解を恐れずに言うならばとてもレイプに似ています。同意の上、得しているのだから良い話だろう、そんなになる前に嫌と言えただろう、逃げられただろう、近づいた自分が悪いんじゃないのか・・・

 

『お前(わたし)ごときのくだらない自尊心よりも有意義な物があるだろうに。』

※心の声、ダダ漏れ

 

それ、誰が決めるのでしょう?

 

エネルギーヴァンパイア、と呼ぶのは失礼でしょうけどわたしから見たらそうなることが多いのです。そしてそれを上手く説明もできなければ理解していただくこともできません。

 

 

気付いたら早いうちに切るしかありませんがそれすらわたしにとっては物凄くエネルギーがいる辛いことです。ご縁を大切にしたい、喜ばせたい、お役に立ちたい・・・を捨てるわけですから。でも裏を返せばそれは私自身の承認欲求なんですね。だから返り討ちに合うのかも知れません。

 

 

 

けれども怖いのはそういった方々の環境に身を置くことで知らず知らず欲求(価値観)が変化してしまうことです。

 

 

・今まで苦手だったことが我慢できてしまう

 

・今まで許せていたことが許せなくなる

 

・自分の価値が分からなくなる

 

・より良くなるよりも「認められたい、怒られたくない」感覚に支配される

 

 

 

今までそんな経験を沢山してきました。

 

どう生きるかを語る上では環境が全てと言っても過言ではありません。

 

そして、自分でそれを取捨、創造できない限り羽ばたくことはできないことも学びました。

 

 

心理学の書物に出てきたのですが、象は2tほどの力を持っており本気を出したら街一つくらい簡単に破壊できるそうです。ですが調教された象はそのことを自分で知らずに細い鎖と簡単な杭で繋がれているそうです。これは有名なノミの実験とも似ていますね(蓋された高さまでしか飛べなくなる)。

 

 

切ることの出来ない間柄でも距離を置くことはできます。自分の力で足りないときは失敗を恐れず助けを求めるべきです(かく言うわたしはとても苦手ですが)。

 

つい日常に溺れ無理無理と言ってしまいがちですが見下されていると感じていながらそう言っているうちは奴隷と同じです。わたしたちはサーカスの象でも家畜でもないのです。

 

 

 

ある程度の支配を経験することも学びかも知れませんが世間のニュースを見ていると社会全体もとても歪んだバランスに感じます。

 

 

べき

ねば

 

 

を捨てることと、より美しい規律の創造は同時にできるような気がしています。

一般的な考えではなくて自分の気持ちで判断すること。そしてそれを尊重しあい支えること、もしくは離れること。我慢や努力は必要かも知れませんがそれだけが頼りの関係性なら脆弱と言わざるを得ません。

 

そんな風に感じます。

わたしは人一倍怖がりだけどそれが反って相手を不快にさせることがある様です。わたしが生きやすい世の中はきっとみんなも生きやすい。常識やマナーだけでなく気持ちに素直な大人になりたい。いつになっても練習です。

 

 

 

微笑合掌