愛の感じ方③ 見えない敵は見えない味方
ジャッジメントは人だけじゃなくて物にもあります。安物とか貧乏臭いものとか。
でも、物の裏にも必ず人がいるとわたしは思っていて。だから
『人の重さを軽んじたとこにジャッジが芽生える』
のではないかなと思います。
ニュース番組やワイドショーを見ながら文句を言うのはとても楽しいけれど
その話題をチョイスしてるのも
その原稿を書いているのも
その話題の中心にいるのも
『人』なんだよね。
他人のプライベートがエンターテインメントになってしまっている。それでお金をもらっている人がいる。サスペンスドラマじゃなくてリアルなのに少し意図的に作られている。
あなたがあの人とすり替わったらどう?
そんな日は絶対にこないのかな?
健康に気を使う人は
砂糖は良くない
薬は良くない
牛乳は良くない
輸入品は良くない
農薬はやばい
添加物はやばい
って当たり前に言う。
お勉強してリスクを避けるのはいい。
他の物を賢く選ぶのもいい。
でもたまにそれらを
『悪だ』
『毒だ』
『買うのバカだ』
って言っちゃう人がいて。
それらを作っているのも『人』なのに。
どんな気持ちでどんな苦労をしてどんな経緯でそのお仕事をしているか知ることも聞くこともできない立場で断定できることって少ない気がするのだけど、自分のお父さんがそんなふうに言われても平気なの?と思ってしまう時があります。
先日コンビニ行って。きっと添加物だらけのお菓子がダーッと並んでいて。大好きなくせにそれを食べるのは「悪い事」だって思ってる自分に気付いて、ふと思ったの。
『消費者のみなさんが安全で安価に美味しいものを手にできますように。気に入ってくれますように。』
って思ってお仕事している人が一人でもいたら?って。確かめようがないんだからそう思ったって良いよね?って。
そう思ったとたんに棚からふわっと温かな風を感じてじんわりと嬉しくなれた。
薬品一つ取ったって人の手を介している。実際に触ってなくても工場の機械を設計したのは、組み立てたのはきっと人で。商品を企画したのも人で。
だから怖くない、ありがとうございますって思えて。
時代によって選ばれなくなるものはある。でも、だからといって憎む必要も怒る必要もない気がしました。
以前、食肉の是非を問う人たちが駅前で運動していたのを見かけて、確かに人間はお肉を食べなくても生きていけそうな気がする。でもあの人たちが立っていた歩道橋は土方のお兄ちゃんたちが額に汗して作ったもので。
一日パワフルに動くためにはきっと肉食べただろうし駅も電車も建物も、そういうお兄ちゃんたちが作ってくれた物。その恩恵を受けてるんだものきっと肉はいるよ、ってわたしは思ってしまった。
飼育環境やとさつ方法は議論があっても良いかも知れないけれど。是非を問う前段階として供給のバランスみたいなものを議論するのではいけないのでしょうか。
もし、魚も植物も技術が進んで人とのコミュニケーションがとれるようになったら、私達は食べないようにするのかな?極端だけど昔の西洋では女と奴隷は思考がないなんて言われていて。牛や鳥だけが可哀想、じゃなくなる時がくるかも知れない。そうしたら立ち行かなくなってしまう。決して動物虐待を応援はしないけれど可哀相という考え方自体が現代的すぎるのかも知れません。
生産者様のおかげで生かしていただいている。そこにも人がいる。人がいる限り「愛がない」とどうして言えるの?と純粋に思いました。
流通が進んで、通信が進んでどんどん人が見えなくなっている。でも人はいる。
それを感じられると、とたんに体が緩む。
愛を感じにくい時は人に厳しくしてるのかもしれません。大事に握っているその手を緩めて普段手にしているものの温もり、そこに関わっている人に思いを馳せてみるごっこをしてみましょう。そこにいるのはきっとあなたの味方です。
おわり