幸福についての考察① 「幸福度」
大事な大事な話をします。
「もっといい部屋に住みたいなあ」
「あんなふうなおしゃれなお店でご飯食べたいなあ」
「あの人みたいなお高い靴を履いたらいい気持ちだろうなあ」
連日テレビや雑誌、SNSで繰り広げられる【イケてるヶ原の戦い】。
いい光量で、いいアプリで、いいタイミングの、いい角度の、イケてる写真をうp。
誰でも一度は参加したことであろう。
かくてわたしもキラキラ系に憧れて背伸びした高いご飯を食べに行ったりしたもんです。
でも、もういいや。
あのね、結婚当初お金が無くて、子供もいて。オシャレスポットなんか行けなかったの。だからご飯もスイーツも手作りだった。わたし、調理科のある高校だったから調理は結構教わったんだけど(所属は服飾科)お菓子はほぼ独学で泣きながら何度もケーキを焼いた。焦げたり膨らまなかったりしてさ。それでも美味しいもの食べて優雅に過ごしたかったの。「あの人たち」みたいに。材料費もバカにならなかったけど兎に角しみったれたくなくてそんなにお金かけないでできることをし続けた。
ほしたらね、何年も経ったある日市販のケーキをいただいて「おいしくない」って思ったの。バターじゃない油脂の味、乳化剤などの添加物の味、膨張剤で作ったスポンジ、生乳じゃない生(?)クリーム。。。味が解るようになっちゃった。後で気付いたんだけどテキストが古いレシピ本だったからやってたことが結構本格的だったのね。
子どもが大きくなって来たら、もうその辺のお味じゃ満足しなくってちょっとこじゃれた店に行くようになってた。それは良い気持ちだったの。「わたし違いわかる。わたし今おしゃれ。」って。
でね、極め付けにSNSで見た「鼻血がでそうなほどおしゃれなホテルのアフタヌーンティー」に行ったわけ。一人5400円。もう、期待値はMAX。色とりどりのスイーツが3段重ねのお皿でやってきて、数えきれない紅茶の中からダージリンのセカンドフラッシュを頼んで・・・ぱくっ
ん?
・・・は?
なにこれ?
ハンバーガーべちょべちょ、サーモン生臭い、いちじくカピカピ、チョコレートの装飾も見た目ばかりで美味しくない!シュクレと自家製のコンフィチュールは及第点。サービスも、隣の席とサーブ時の説明が違う、もう出涸らしのポットに永遠にさし湯してくるし、、、
同行した姉と鼻で笑って帰って来た。場所と値段と中身のクオリティーは必ずしも比例しないのね。味がわかったら二度と行かないはずなのにFBじゃ写真が撮りたいのか2度も3度もうpしてる人がいた。もっとましなお店知らないのかしら?
あれ?
憧れていたところに行ったはずなのにちっともハッピーじゃない。なんでだろう?
違いが分かれば分かる程「満足できる条件」が減って行く。
昔は満足してたものも、だんだん気持ちが薄れて行った。それはなぜ?
どんなに好きで満足していても、別の物が視界に入ったら試してみたくなる。
眼で見ちゃったら、聴いちゃったら、わたしたちはその瞬間から『比較』をするのじゃないかしら?そのことによって知らない間に既存のありがたみや新鮮さが剥奪される。
もしかして、「イケてるヶ原の戦い」はいたずらに欲求を刺激し合ってお互い欠乏するのがゴールなのかしら。
海外に住んでお金があってホテルのディナー食べながら不機嫌な人もいる、
小さなアパートに住んで大好きな駄菓子でニコニコしてる人もいる。
人生に勝ち負けなんかないけれど、幸せな人が最強だしゴールだと思うの。だから幸福度って、「何を持ってるか」じゃなくて「何を感じてるか」かも知れない。勝ち負けで言うなら生きている間、『何分笑っていられたか』ってことじゃないかしら。
それに気付けないと良くない方へエスカレートをしてしまうみたい。
「今」より良い生活を目指すのは決して悪くない。でもそれが「今」の否定になっていたら幸福度は低い。
沢山の良いものを知ること、経験することがステイタスだった。でもそれは幸福度と関係なかった。むしろそれらの情報はわたしの中に「そうじゃない」ものを増やした。無駄と言えば無駄だけど、無駄をしたから気付けたこと。宇多田ヒカルちゃんの歌にあったよ、
『足りないくらいでいいんです 楽しみは少しずつ』(2時間だけのバカンス)
実感なく言ってもただの美徳や我慢になるけれど、わたしにとってはもう、それが答え。無理をせずに肩の力を抜いて必要なタイミングで素敵なものに出会いたい。
40手前。折り返し地点が来ているのを感じる。
➡次回 幸福についての考察② へつづく