武器を捨てよ
割れた器を直す「金継ぎ(きんつぎ)」というのがありまして。趣味の一環として独学でやっとります。
慣れてきたら、こんなにボロボロになっても治せるわたしすごい!と悦に入って。
※見えにくいけど外側の継ぎ目は器の青に映えるよう漆の朱色を活かし、内側は金色に。紅茶を淹れると水色で中の金が漆の色に見え、飲み進めるごとに金色が覗くという粋な仕掛けに。
いつだって美的感覚や教養、知識に乏しい人間は自分の理解に及ばない出来事を見ては「なにを金にもならぬ、無駄なことを」と嘲笑うんでしょうけど、わたしの目の前でより美しく生まれ変わった《彼女》を解らぬ輩などと語らうことは未来永劫出来ぬな、ふははははと偉そうに笑って、
ふと立ち止まる。
この世で出会う煩い事を避け、愛おしさを選び、それを還元していくためのツールこそが「美」や「教養」。では、たった今それらを武器に目の前にいもしないどなたかを斬ったわたしはなんとする?
いやいや、こんな野蛮な考えはいけない。わたしもまた、【輩】であった。武器にするなら美や教養など持たぬ方がよっぽど美しいわい!
と、一人で納得と反省。
神の名を掲げ傷つけあうことを、きっとその神は望まないし、悲しみが消えなくてもそこに「善悪」を引き出さず思い馳せることが出来たらきっと多くの苦しみが消えるもんねー
的なことを考えてたら今日は釈迦の誕生日だったらしい。
微笑合掌
※文末の「微笑合掌(みしょうがっしょう)」の微笑は仏教用語【拈華微笑(ねんげみしょう)】からいただいています。釈尊とその弟子摩訶迦葉の故事ですが史実に反したエピソードとも言われています。釈尊が弟子たちに無言で花を捻って見せ、その意味を摩訶迦葉だけが解り微笑んだ、というもの。その景色が美しくて、そしてわたしも幼い頃から人達の中で一人だけ解って笑っていることが多いものだから。
そっと、勝手に、内緒で解って、微笑んでいます。その時の幸せ。