じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

美しい気持ち

自分を責めたくないから

人を責める、

は良くないけど


じゃあ

人を責める代わりに

自分を責める、

が良いってわけじゃない。



人も自分も責めない方法を
確立した方がいい。



そこは認めよう。

 


元々の私達は
もっと大らかで
優しさに満ち溢れ
きっと穏やかで


だけど
偏った教育や
競争や叱責や
寝不足や過労や
偏った栄養が

いつしかそれを捻じ曲げてしまった。

 


寝よう
控えよう
休憩しよう
少しだけ、ズルをしよう

ヒエラルキーを忘れよう



今持っている全てを失ったつもりで一日を過ごして、それでも自分を愛せるか問おう



全ての失敗はヒントで
愛すべき助言で。


そのいら立ちも
その不満も
そのやるせなさや悲しみも
大いなるヒントで。



もっとできることは無かったのだろうか

空の上から自分を見つめて
静かに優しく微笑みながら
寄り添ってみよう


きっと

いらない遠慮や
配慮不足や

言葉足らずや

準備不足があったよね

その時は気付けなかったけど。



「うんうん、そうか。」

と自分の頭を撫でて
その問題は終わりにしよう。

 

 

 

 

微笑合掌

江戸文化とアドラー心理学

今日は少し面白い話。

こないだ若いお嬢さん達に話したらとても喜ばれた江戸文化の話。

 

 
 その前にこちらを紹介

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「嫌われる勇気」

ベストセラーになった本です。

ユダヤ人心理学者アドラーが100年前に提唱したアドラー心理学を元に会話形式で書かれた読みやすい指南書です。

 

 

アドラーは日本で主流となっている有名な心理学者のフロイトユングとはあまり関係が良く無かったこともあり、国内では積極的に学ばれてこなかったと聞きました。

 

 


アドラーが提唱している幸せな生き方は

 

「他者を思いやり、より大きなコミュニティーに貢献すること。その過程で自分の気持ちも押し殺さないこと。」

  

それを、息をするように自然に身につける


《共同体感覚》

 

 が軸になっているそうです。

 

 





全く別件で江戸時代の文化や教育についての本を読んでいたら、どうも


100年前にアドラーが【提唱】したことを

200年前の江戸市民がすでに【実践】していたようだとわかりました。

 

 

時代劇などを見るとその町人のほとんどが飲食店の従業員や芸者、職人といった労働者で一握りの経営者は悪役としてばかり描かれています。しかし、実際の江戸市民は9割方が商人で、後継者に限らず次世代への教育を重んじた彼らこそが町の経済や活気、治安を支えていたようです。

ユダヤ人の多くも所を追われて流浪する中、商人としての教育を財産に多くの富を得たそうです



江戸の人々には客を見抜く目や商才のみならずいかに信用を得ていくかを子どもの頃から徹底して教育し、狭い町に沢山人が溢れていても気持ちよく生活する知恵を「癖」のように身につける『江戸しぐさ』(=江戸人の考え方)がありました。上品で粋で頭脳明晰でおごらない集落を市民が主体的に伝え暮らしていたのです。

 


簡単なところでいうと

 

⚫子どもが一人前になるのは15歳

⚫転んだ人を助ける時は自尊心傷つけないようにしばらく見守ってから

⚫卑屈にならない、偉ぶらない

⚫相手が寛げるように配慮し、それをひけらかさない



そういったような内容ですがユダヤの教えとも合致するのです。

同祖、というと言い過ぎだけどあんまり似てるからどこかでヒントがあったのだと思っています。


そして、外国のものをありがたがるわりに我が国について知らされてないなあ、と改めて思うのですよね。





 

 おまけ


 

そもそもの【江戸】という単語も諸説あり、一説によれば「江戸氏」を名乗る方々が町づくりに貢献したと言われています。

 

 

これ、ヘブライ語だったら面白いなと思って調べたらありました。

 

 


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出典:http://www.historyjp.com/dictionary.asp



 

日本語とヘブライ語神道の起こりから関係しているという先生も。ひふみ祝詞ヘブライ語?なんて。


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 ※諸説あります。

 

ではまた来週笑。

暇か!

あなたが女性だったとしてあなたが「この人だ」思う人が、

 

好きです

素敵です

可愛いです

綺麗です

 

と優しく欲しがってくれたら、たとえ鼻が低くても脚が太くても気にせず歩いて行ける気がしませんか?

 

 

美人になるってそう言う事な気がします。

 

 

普段は


頑張らないと

努力しないと

何かがないから

何かがあるから

 

 と自分の欠点を否定しがちだけど、実はそれらはただの《拠り所》だったりします。 

 

あなたの素敵さって誰が決めるんですか?

 

あなたの事を大好きという人がいたとして、はたしてあなたが嫌うものを「好き」と言えるでしょうか。

 

 

 

否定されて育ったのは「過去」です。

 

 



今から呪いを解きましょう。

 

 



用意はいいですか?







 

さあ、

 







笑って。

 


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お一人様

みんながカップルや家族で行くような場所へ一人で訪れることを『お一人様』と呼ぶのが流行りというよりも当たり前のように歓迎され始めていて。


焼き肉屋さんや遊園地まで、本当は一人で行ってみたいけど人目が少し気になるなあと遠慮しなくて良くなりました。




けれど昔から


お一人様[合戦(かっせん)]


っていうのがあって。




誰も戦ってないのに見えない甲冑を着て

 

「暑い〜、重い〜」

「さては貴様?憎っき仇め。」

「隙きあり!」

 

 て、誰かを斬っている。


合戦、終わりましたよと言われても信じられなくて、仮に合戦がなかったら何をしていいか分からなくて。

戦っている間は命の限りに生きているような気持ちになっていて。



生きているとたまにそういう時があります。

そういう時には美味しい焼き肉でも食べると良いと思います。

おかしな前提

世界は敵でわたしは弱くて。

 


みんなが強く見えたから、「弱さ」という剣でなら人を斬ってもいいと思っていた時期があります。

 

暴力というのは根本的にこんなふうな理論なのかも知れません。

 

「どうしてわたしばっかり」

「どうしていつもこうなるの?」

「だったらもう、こうしてやれ!」


そう思ってしまう時は大体前提が間違ってるような気がします。


おかしな行動や言動をしてしまう時は大抵感情的で、大抵追い詰められています。


そんな小さなことでどうして?

そんな理由でどうして?

一体何が問題なの?


と言われても、当の本人は分かってもらえないこと自体が受け止められない。


わたしたちは同じものを見て同じ世界にいるように思うけれどその人その人、目の数だけ別の世界があるんです。


本人も周囲も知り得ない世界の齟齬があるんです。


ある人が見たら仲の良い親子

ある人が見たら年の差カップ


前提が違っていたら意味は変わります。

だから分からなくって当たり前なんだと思います。

イケてない理由 2

わたしより素敵な人は沢山いるし

わたしより出来ない人も沢山いる


その基準はわたしが勝手に決めているし、みんなも勝手に決めている。


比べること自体にはたぶんあんまり意味はなく、



未来に待っているのはご褒美やハッピーやポジティブやゴールでもなく。



欲しいものを欲しがっている自分は

何を手に入れても

欲しいものを欲しがっている自分のまま



あれはいけないと怒っている自分は

何か解決しても

あれはいけないと怒っている自分のまま




今している、感じていることがそのまま叶えられて行く。


そう思う。




芸能人のスキャンダルに怒っている人は

ほとぼりが冷めると

子どもの担任に怒っていたりする。



カッコいい車が欲しいと稼いだ人は

車を買うと

マンションを買うんだと稼いでいたりする。 





本当は


すごいことなんかできなくていい

社会的にダサくてもいい

問題も放っておいていい

難しいことも知らなくていい

親しくない人を嫌ってもいい



そんな風に教える親はいないし、その教育は正しい。



でもわたしは長い間、意思や欲求を消すことで放棄することで自分を守っていまった。ただ、ただ生きていることを世界に許されたくて。


でも、

何をしても、何を手に入れてもなぜか生きていることを世界に許されたいわたしのままでした。



わたしはこれがすき

わたしはこれがいや


それを捨てない、弁解しない。理解は求めても承認を求めない。世界がどうでもわたしは許そうと気付いて。


盾は守ってくれるけど、光を遮ってしまう。

光を得るには身を晒すことが必要で、自分を認められなければさらけ出すことはできなくて。



守ることをやめたら、自分の中の

飼い慣らせない、隠すしかなかった 怒りや悲しみに出会って。


でもそこで悩んだり向き合うとそれが続いて行くから


だから


「ぷーっ!あなたって恥ずいね!面白いね!」


て思うんです。



生きるってそのくらいでいいんですよ、きっと。


イケてない理由 1

分かっていても忘れてしまう。

知っているのに実行できない。

 

 

そういう事がよくあります。

自分でその状態に気付いているのに自責してばかりで行動に移せない時もよくあります。

 

 

前々から言っていないとやってくれない家族にうっかり急ぎの用をお願いして断られてヘコんだり、でもまたしばらくして全く同じように頼んでしまったり。


本当はこうしたらいいのに、

本当は嫌がるの知ってるのに、


わたしのタイミングで「こうして欲しい」を手放せなかったり。





私達は何かがうまく行かないとき、ついイライラして焦って、なんだか無性に腹が立って、気付くとそれで貴重な時間を消費してしまう。

けれど、生きていく上での心地良さや気持ち良さは決してタダで与えられる物ではなくって過去のラッキーですら、よくよく考えるとちゃんと自分から取りに行ってる。

 

 

自分は何によって気持ちが良くなるのか。何によって幸せを感じるのか。何を望まないのか。何を大切にするのか。

 

答えは世界のどこでもなく「自分」の中にしかない。

 

 

わたしが答えを決めていなければ周囲の人間も神様も何をしてあげたらいいか見当が付かないのは当たり前。


ないものねだりしてもわたし以外は答えを聞く方法がない。

 

 

普段のわたしはどんな刺激にどんな反応をしている?



好きな単語、考え方、言い方

嫌な単語、考え方、言い方


 

良く見て

良く感じて


ひとつひとつの小さな出来事と

ひとつひとつの小さな心の動き


を細いリボンで丁寧に

何組ものペアに繋いで


とっちらかった心の中を

静かにシンプルに整頓していく。


 

こだわり

思い込み

正義

常識

 

本当は良い事なのになんだかしっくりこない

本当は嬉しい事なのになんだか不快になる


理屈は分からなくても感じてしまうことを正直に認めること、誰にも裁かせずに。


だって

みんながみんなと同じでいいなら

きっと神様はわたしを創らない

 



人生に出口なんかなくて

今していること、感じていることが永遠に続いて行くだけかも知れないなと思うことがあります。


喧嘩しない方法は知ってる

嫌いにならない方法は知ってる

ご機嫌になる方法も知ってる

好きでいられる方法も知ってる



できないのは

なるべく良い気持ちで生きよう、と決めきれていないから


足を掬われてしまうのはそういう時なのかも知れません。

 

 

 

微笑合掌