じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

和に親しむの会レポ①~和のあかり展~

わたし、着付けの先生をしています。先日は、なかなか外へ着ていく勇気の無い生徒さんと着物好きな仲間を集め、みんな楽しくGo outing!でございましたのよ。

 


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(青の夏物。帯の後ろにいるおじさんに激似なブローチを帯留めに😊)

 

 

会場となりました東京は目黒にあります『ホテル雅叙園』は言わずと知れた和の老舗スポット。お食事・宿泊はもちろん豪華な結婚式場として大変有名です。

 

 

とは言え、例え東京人であっても機会がないと足を踏み入れるには勢いのいる場所なのでございます(笑)。

 

 

雅叙園は明治時代の不況に仕事を無くした芸術家たちを絶やさぬよう、日本が世界に誇る観光施設として贅の限りを尽くし建てられたホテルなのです。

 

今でこそ全体は近代的な造りでありますが、当時の面影が随所に盛り込まれており、特に展示スペースの『百段階段』と呼ばれる旧客室群は重要文化財として当時のまま残されています。

 

エレベーターの中外は唐獅子牡丹の螺鈿細工。廊下から各部屋の天上や室内の至るところに麗しい日本画が描かれ、柱や欄間の装飾、組み木細工、螺鈿の鴨居・・・もう眼福の極み。。。(知識がなくても圧巻ですよ👍)

 

 

今回はこの百段階段で『和(japan)』をテーマにした照明のアート展示【和のあかり展】が催されており、開催の度に大変人気だと聞き付け企画させていただきました。

 

涼しげで愛らしい浴衣、粋な着こなしの浴衣、お集まりの参加者様が会場に花を添えておりました✨

 
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その②へ続く

 

父の勝虫

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確か、20才の記念に姉とお揃いで父からプレゼントされました。

 

 

「トンボは勝虫(かつむし)と呼ばれて武士の御守りだったんだよ。」

 

「えー?なんで?強く無さそうよ。」

 

「前にしか進まないんだよ。」

 

 

貰ったときは贅沢な気がして中々付けられなくて30過ぎてから使うようになりました。父はすっかり忘れていて「そういうものは(主人に)買ってもらうの?」なんてよく言ってます。

 

 

アラフォーになってからは普段使いしているのだけど、今日ふとその意味を思い出して。

 

 

ちょっと難しいことが立て込んでいて気持ちが折れそうだったの。

 

 

「がんばりなさいね。」

 

 

って言われた気がした。

 ほんとうに御守りだったんだ。

 

 

意味のあるプレゼントって素敵ね。わたしもさりげなく誰かを思えるようになりたい。 

 

 

 

微笑合掌

自愛

※わたしを娘や妹のように可愛がってくださる方々がいます。先生とか会長とか呼んで頼ってくれる人がいます。いつもありがとうございます。

 

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思いの他ピュアでかわいらしいわたし

書いた物を見て気付く

ノートは時に鏡

 

悔しいけれど 救いようのないほど

古風で愛らしい

強がりでさみしがりや

 

貴女は名前のとおりの人 と主人に言われる

この間 兄さまにも言われた

 

悔しいけれど たぶん そう

 

自分の中のもやもやしたものを言葉にできない時もあるのだけど

そのもやもやが もはや答えなの

言葉にできなくて隅に追いやってしまう時もあるけれど

やっぱり消すことはできなくて

 

どんなに遠回りしても戻ってやりなおす 気のすむまで繰り返す

 

痛々しい人

痛々しいまでに 純

 

そろそろそれを愛せたらいい

皆様がしてくださるように

 

 

微笑合掌

【貧乏】

貧乏なまま いきる

 

うまいものは食べる もらえるものは貰う 欲しいものは買う 

必要な時に金がない

勝手に困る 子に叱られる 主人に怒られる

無駄に払っちゃう 使っちゃう

 

もっと無い人もいるか

貧乏じゃないか

ああ、「お金持ちにならない」だな

いや 意外に持っているよ

なんじゃこりゃ?! ええと ええと・・・

 

無駄かどうかはわたしが決める

 そのことで何かが知れたら意味がある

もやもやとする心 これじゃない感じ

 気付いたら意味がある

 

自分をもてなすなら きちんと受け止めて きちんと幸せを感じないと

いけないね

 

気付くと駄目出しをしている

 

満たすための事をしておいて

こんなもの大して良くないとか

無駄にしてしまったとか

欲求や欠乏感だけ満たして肝心の 心 は満たされていない

自分の幸福に対して責任感が足りてないみたい

 

ああ! それが本当の 貧乏 なのだね

愛の感じ方③ 見えない敵は見えない味方

ジャッジメントは人だけじゃなくて物にもあります。安物とか貧乏臭いものとか。

でも、物の裏にも必ず人がいるとわたしは思っていて。だから

 

 

『人の重さを軽んじたとこにジャッジが芽生える』

 

 

のではないかなと思います。



 

ニュース番組やワイドショーを見ながら文句を言うのはとても楽しいけれど

 

その話題をチョイスしてるのも

その原稿を書いているのも

その話題の中心にいるのも

『人』なんだよね。

 

他人のプライベートがエンターテインメントになってしまっている。それでお金をもらっている人がいる。サスペンスドラマじゃなくてリアルなのに少し意図的に作られている。

 

あなたがあの人とすり替わったらどう?

そんな日は絶対にこないのかな?

 

 

健康に気を使う人は

 

砂糖は良くない

薬は良くない

牛乳は良くない

輸入品は良くない

農薬はやばい

添加物はやばい

 

って当たり前に言う。

お勉強してリスクを避けるのはいい。 

他の物を賢く選ぶのもいい。

でもたまにそれらを

 

『悪だ』

『毒だ』

『買うのバカだ』

 

って言っちゃう人がいて。

それらを作っているのも『人』なのに。

どんな気持ちでどんな苦労をしてどんな経緯でそのお仕事をしているか知ることも聞くこともできない立場で断定できることって少ない気がするのだけど、自分のお父さんがそんなふうに言われても平気なの?と思ってしまう時があります。

 



先日コンビニ行って。きっと添加物だらけのお菓子がダーッと並んでいて。大好きなくせにそれを食べるのは「悪い事」だって思ってる自分に気付いて、ふと思ったの。


『消費者のみなさんが安全で安価に美味しいものを手にできますように。気に入ってくれますように。』


って思ってお仕事している人が一人でもいたら?って。確かめようがないんだからそう思ったって良いよね?って。


そう思ったとたんに棚からふわっと温かな風を感じてじんわりと嬉しくなれた。

薬品一つ取ったって人の手を介している。実際に触ってなくても工場の機械を設計したのは、組み立てたのはきっと人で。商品を企画したのも人で。

だから怖くない、ありがとうございますって思えて。



時代によって選ばれなくなるものはある。でも、だからといって憎む必要も怒る必要もない気がしました。

 


以前、食肉の是非を問う人たちが駅前で運動していたのを見かけて、確かに人間はお肉を食べなくても生きていけそうな気がする。でもあの人たちが立っていた歩道橋は土方のお兄ちゃんたちが額に汗して作ったもので。

一日パワフルに動くためにはきっと肉食べただろうし駅も電車も建物も、そういうお兄ちゃんたちが作ってくれた物。その恩恵を受けてるんだものきっと肉はいるよ、ってわたしは思ってしまった。

飼育環境やとさつ方法は議論があっても良いかも知れないけれど。是非を問う前段階として供給のバランスみたいなものを議論するのではいけないのでしょうか。



もし、魚も植物も技術が進んで人とのコミュニケーションがとれるようになったら、私達は食べないようにするのかな?極端だけど昔の西洋では女と奴隷は思考がないなんて言われていて。牛や鳥だけが可哀想、じゃなくなる時がくるかも知れない。そうしたら立ち行かなくなってしまう。決して動物虐待を応援はしないけれど可哀相という考え方自体が現代的すぎるのかも知れません。

 

生産者様のおかげで生かしていただいている。そこにも人がいる。人がいる限り「愛がない」とどうして言えるの?と純粋に思いました。

 

 


 

 

流通が進んで、通信が進んでどんどん人が見えなくなっている。でも人はいる。

それを感じられると、とたんに体が緩む。

 

愛を感じにくい時は人に厳しくしてるのかもしれません。大事に握っているその手を緩めて普段手にしているものの温もり、そこに関わっている人に思いを馳せてみるごっこをしてみましょう。そこにいるのはきっとあなたの味方です。

 

 

 

おわり

愛の感じ方② 共同体感覚

共同体感覚ってアドラー心理学の言葉で、平たく言うと「わたしはみんなの中の一人です」って思うことを言うらしいです。

 


会社が潰れそうな時に「早く辞めよう。」と言うのか、黙って「みんなが路頭に迷わないためにできることはなんだ?」と思えるかでだいぶ幸福度が変わるよね、と。

 

 

でも自分から人のために何かするのは難しいし、ジャッジがあったらなおさら。


逆に元気はあるけどジャッジがきつい人は共同体感覚だ、と言いながら実態は同調圧力という「コントロール(誘導)」になってしまって出来ない人を排除しだしたり。

 



 

街中や電車の中でイライラしたり不安になったら

 

『ここにいるの、みんな知ってる人。』

 

って思ってみると、不思議とホッとしませんか?

 

赤の他人で服が鬼ダサくても機嫌悪そうでも、[喋ったことない同級生][お母さんの友達]と勝手に思ってみる。

すると「別にこの子はそいうキャラじゃないし」とか「なんか今日は機嫌悪いんだね」って思えてきて、不思議と自分も許されてる気持ちになってくる。嘘なのに。


そういうごっこをしていると人とつながるレッスンになるそうで。


誰でも知らない人は緊張するけれど「怖くない」「敵じゃない」が始まり。なんだ大丈夫じゃん、を感じていれば穏やかになれる。優しくなれる。

そしてその中で自分自身が自分をジャッジしてしているものにも気付けそうな気がします。

 


 

③につづく。

愛の感じ方① ジャッジメント

人を裁く、ということを「ジャッジメント」というのだって。それを減らしたほうが生きやすいのだって。



ジャッジとは

 

あれは良い

これはだめ

 

ということ。思うこと。

 

ふつうじゃないの?あたりまえじゃないの?

世の中ってそうやってできてるし、そうやって習うし、それに司法国家は悪いことしたら捕まるよね?


それで間違ってないのだけど。

だけど。。。

 

 

仮に気になる人がいて、その人とあなたは同じ道を歩んで生きてきていなくてあなたの常識が他の人には非常識になることが(逆も)ある。それはどうしてもそう。世間的にとか法律では、で片付けられない時がある。

 

でね、

 

何かしちゃったことが「初めて」なのか「たまたま」なのか「理由があって」なのか「習慣としていっつも」なのかは確認しないかぎり分からなくて。

 

何かしちゃったことが「他の人の迷惑」になるのか「将来大変」になるのか「自分以外の人には問題ない」のかも確認しなきゃ分からなくて。


でも、いっぺん「わたしとは違う悪い人だ」と思ったらそこがゴールになってしまう。



円滑なコミュニケーションには

 

 あなたが何を感じたか と

なぜそう感じたか   と

相手の目的はなにか  と

それを回避する方法  は


 

を切り離して考えないといけなくて、そこに善悪を持ってきたら答えが見えなくなることが多い。


 

正しい枠に入る人ばかりじゃないし、見えないところで何があったのかは分からない。自分が知らぬ間に枠から外れることだってある。トラブルや時代の流れで突然その枠自体が形を変えてしまうこともある。ジャッジがきついと人に寄り添えないだけでなく、そういう時に対応できない。



人に対しても自分に対してもジャッジは少ない方が軽やかに生きられる。

「あんな人は嫌!」と思っていたら自分もなっていた、という時、ジャッジがきつい人は自分を許せず病んでしまう。

 

 

そういう考え方もあるんですよ、というお話。



 

②につづく。