じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

自愛

※わたしを娘や妹のように可愛がってくださる方々がいます。先生とか会長とか呼んで頼ってくれる人がいます。いつもありがとうございます。

 

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思いの他ピュアでかわいらしいわたし

書いた物を見て気付く

ノートは時に鏡

 

悔しいけれど 救いようのないほど

古風で愛らしい

強がりでさみしがりや

 

貴女は名前のとおりの人 と主人に言われる

この間 兄さまにも言われた

 

悔しいけれど たぶん そう

 

自分の中のもやもやしたものを言葉にできない時もあるのだけど

そのもやもやが もはや答えなの

言葉にできなくて隅に追いやってしまう時もあるけれど

やっぱり消すことはできなくて

 

どんなに遠回りしても戻ってやりなおす 気のすむまで繰り返す

 

痛々しい人

痛々しいまでに 純

 

そろそろそれを愛せたらいい

皆様がしてくださるように

 

 

微笑合掌

【貧乏】

貧乏なまま いきる

 

うまいものは食べる もらえるものは貰う 欲しいものは買う 

必要な時に金がない

勝手に困る 子に叱られる 主人に怒られる

無駄に払っちゃう 使っちゃう

 

もっと無い人もいるか

貧乏じゃないか

ああ、「お金持ちにならない」だな

いや 意外に持っているよ

なんじゃこりゃ?! ええと ええと・・・

 

無駄かどうかはわたしが決める

 そのことで何かが知れたら意味がある

もやもやとする心 これじゃない感じ

 気付いたら意味がある

 

自分をもてなすなら きちんと受け止めて きちんと幸せを感じないと

いけないね

 

気付くと駄目出しをしている

 

満たすための事をしておいて

こんなもの大して良くないとか

無駄にしてしまったとか

欲求や欠乏感だけ満たして肝心の 心 は満たされていない

自分の幸福に対して責任感が足りてないみたい

 

ああ! それが本当の 貧乏 なのだね

愛の感じ方③ 見えない敵は見えない味方

ジャッジメントは人だけじゃなくて物にもあります。安物とか貧乏臭いものとか。

でも、物の裏にも必ず人がいるとわたしは思っていて。だから

 

 

『人の重さを軽んじたとこにジャッジが芽生える』

 

 

のではないかなと思います。



 

ニュース番組やワイドショーを見ながら文句を言うのはとても楽しいけれど

 

その話題をチョイスしてるのも

その原稿を書いているのも

その話題の中心にいるのも

『人』なんだよね。

 

他人のプライベートがエンターテインメントになってしまっている。それでお金をもらっている人がいる。サスペンスドラマじゃなくてリアルなのに少し意図的に作られている。

 

あなたがあの人とすり替わったらどう?

そんな日は絶対にこないのかな?

 

 

健康に気を使う人は

 

砂糖は良くない

薬は良くない

牛乳は良くない

輸入品は良くない

農薬はやばい

添加物はやばい

 

って当たり前に言う。

お勉強してリスクを避けるのはいい。 

他の物を賢く選ぶのもいい。

でもたまにそれらを

 

『悪だ』

『毒だ』

『買うのバカだ』

 

って言っちゃう人がいて。

それらを作っているのも『人』なのに。

どんな気持ちでどんな苦労をしてどんな経緯でそのお仕事をしているか知ることも聞くこともできない立場で断定できることって少ない気がするのだけど、自分のお父さんがそんなふうに言われても平気なの?と思ってしまう時があります。

 



先日コンビニ行って。きっと添加物だらけのお菓子がダーッと並んでいて。大好きなくせにそれを食べるのは「悪い事」だって思ってる自分に気付いて、ふと思ったの。


『消費者のみなさんが安全で安価に美味しいものを手にできますように。気に入ってくれますように。』


って思ってお仕事している人が一人でもいたら?って。確かめようがないんだからそう思ったって良いよね?って。


そう思ったとたんに棚からふわっと温かな風を感じてじんわりと嬉しくなれた。

薬品一つ取ったって人の手を介している。実際に触ってなくても工場の機械を設計したのは、組み立てたのはきっと人で。商品を企画したのも人で。

だから怖くない、ありがとうございますって思えて。



時代によって選ばれなくなるものはある。でも、だからといって憎む必要も怒る必要もない気がしました。

 


以前、食肉の是非を問う人たちが駅前で運動していたのを見かけて、確かに人間はお肉を食べなくても生きていけそうな気がする。でもあの人たちが立っていた歩道橋は土方のお兄ちゃんたちが額に汗して作ったもので。

一日パワフルに動くためにはきっと肉食べただろうし駅も電車も建物も、そういうお兄ちゃんたちが作ってくれた物。その恩恵を受けてるんだものきっと肉はいるよ、ってわたしは思ってしまった。

飼育環境やとさつ方法は議論があっても良いかも知れないけれど。是非を問う前段階として供給のバランスみたいなものを議論するのではいけないのでしょうか。



もし、魚も植物も技術が進んで人とのコミュニケーションがとれるようになったら、私達は食べないようにするのかな?極端だけど昔の西洋では女と奴隷は思考がないなんて言われていて。牛や鳥だけが可哀想、じゃなくなる時がくるかも知れない。そうしたら立ち行かなくなってしまう。決して動物虐待を応援はしないけれど可哀相という考え方自体が現代的すぎるのかも知れません。

 

生産者様のおかげで生かしていただいている。そこにも人がいる。人がいる限り「愛がない」とどうして言えるの?と純粋に思いました。

 

 


 

 

流通が進んで、通信が進んでどんどん人が見えなくなっている。でも人はいる。

それを感じられると、とたんに体が緩む。

 

愛を感じにくい時は人に厳しくしてるのかもしれません。大事に握っているその手を緩めて普段手にしているものの温もり、そこに関わっている人に思いを馳せてみるごっこをしてみましょう。そこにいるのはきっとあなたの味方です。

 

 

 

おわり

愛の感じ方② 共同体感覚

共同体感覚ってアドラー心理学の言葉で、平たく言うと「わたしはみんなの中の一人です」って思うことを言うらしいです。

 


会社が潰れそうな時に「早く辞めよう。」と言うのか、黙って「みんなが路頭に迷わないためにできることはなんだ?」と思えるかでだいぶ幸福度が変わるよね、と。

 

 

でも自分から人のために何かするのは難しいし、ジャッジがあったらなおさら。


逆に元気はあるけどジャッジがきつい人は共同体感覚だ、と言いながら実態は同調圧力という「コントロール(誘導)」になってしまって出来ない人を排除しだしたり。

 



 

街中や電車の中でイライラしたり不安になったら

 

『ここにいるの、みんな知ってる人。』

 

って思ってみると、不思議とホッとしませんか?

 

赤の他人で服が鬼ダサくても機嫌悪そうでも、[喋ったことない同級生][お母さんの友達]と勝手に思ってみる。

すると「別にこの子はそいうキャラじゃないし」とか「なんか今日は機嫌悪いんだね」って思えてきて、不思議と自分も許されてる気持ちになってくる。嘘なのに。


そういうごっこをしていると人とつながるレッスンになるそうで。


誰でも知らない人は緊張するけれど「怖くない」「敵じゃない」が始まり。なんだ大丈夫じゃん、を感じていれば穏やかになれる。優しくなれる。

そしてその中で自分自身が自分をジャッジしてしているものにも気付けそうな気がします。

 


 

③につづく。

愛の感じ方① ジャッジメント

人を裁く、ということを「ジャッジメント」というのだって。それを減らしたほうが生きやすいのだって。



ジャッジとは

 

あれは良い

これはだめ

 

ということ。思うこと。

 

ふつうじゃないの?あたりまえじゃないの?

世の中ってそうやってできてるし、そうやって習うし、それに司法国家は悪いことしたら捕まるよね?


それで間違ってないのだけど。

だけど。。。

 

 

仮に気になる人がいて、その人とあなたは同じ道を歩んで生きてきていなくてあなたの常識が他の人には非常識になることが(逆も)ある。それはどうしてもそう。世間的にとか法律では、で片付けられない時がある。

 

でね、

 

何かしちゃったことが「初めて」なのか「たまたま」なのか「理由があって」なのか「習慣としていっつも」なのかは確認しないかぎり分からなくて。

 

何かしちゃったことが「他の人の迷惑」になるのか「将来大変」になるのか「自分以外の人には問題ない」のかも確認しなきゃ分からなくて。


でも、いっぺん「わたしとは違う悪い人だ」と思ったらそこがゴールになってしまう。



円滑なコミュニケーションには

 

 あなたが何を感じたか と

なぜそう感じたか   と

相手の目的はなにか  と

それを回避する方法  は


 

を切り離して考えないといけなくて、そこに善悪を持ってきたら答えが見えなくなることが多い。


 

正しい枠に入る人ばかりじゃないし、見えないところで何があったのかは分からない。自分が知らぬ間に枠から外れることだってある。トラブルや時代の流れで突然その枠自体が形を変えてしまうこともある。ジャッジがきついと人に寄り添えないだけでなく、そういう時に対応できない。



人に対しても自分に対してもジャッジは少ない方が軽やかに生きられる。

「あんな人は嫌!」と思っていたら自分もなっていた、という時、ジャッジがきつい人は自分を許せず病んでしまう。

 

 

そういう考え方もあるんですよ、というお話。



 

②につづく。

わたしの思う


①調理ができる

②料理ができる

③食事が作れる

④料理はできない

 

は、

 

 

①調理ができる

切ったり、焼いたり、煮たりができる。

 

②料理ができる

必要な材料を選んで買ってきて、カレーやパスタやサラダなどの料理が作れる。

 

③食事が作れる

食材の準備、栄養や彩りのバランスを考えた『献立』を組むことができる上にそれらを同時進行でタイミング良く調理し、配膳する事が出来る。

 

 

④料理はできない

食べる人の好みに合わせ、ある程度バランスの良いラインナップで買って来ることができる。

 

 

 

①の人は「料理ができないわけじゃない」といいがちで、やらせてみれば分かるけどしょっぱなからキノコは洗うのか、キャベツはどう切るかなどいちいち聞いていたりする。主に出来合いの市販ソースを使った味付けで予算は度外視のことが多い。

 

②の人にありがちな「料理?作れるよ!」は1品しか出てこない(肉を焼いて終わり、味付け卵のみ、など)。もしくはチグハグ、単一な献立(サンドイッチとお味噌汁、唐揚げと鳥肉のサラダなど)。①よりは手際がよく味も安定しているけど、魚のつみれには魚の出汁を使わないなどといった出汁と具のバランスや一方が味噌味なら一方は醤油味にするなどとといったメインとサイドのコントラストが考えられない、というか知らない。

仮に主婦でもあまり料理しなくなると献立のセンスがおかしくなるし料理していても精神的に疲弊してくると陥る。



③の人は取り立てて料理ができることをアピールしない。本人曰く特別熱心でなくてもなんだかんだ気に入りのレシピ本があったり、無自覚ながらTVや外食で定期的に情報収集している。過去にある程度は苦労して習得しており、食事で一番肝心なのは食べる人の満足度だと心得ている。手間ばかりかかってコスパも味も良くないようなメニューは絶対に作らない。出来上がっても美味しくなかったら出さない、くらいの潔さがある。

 

 

④の人は長い実家暮らしでやってくれる人がいるのか、とりたてて使命感はない。食べることは好きな場合が多いが市販の味付けに慣れているために高級品などの繊細な味の違いに気がつきにくい。手作りでは薄味に感じて満足しない。金銭に余裕があるかコストの計算ができない。出来る人間とは「単純な技術の差」だけだと思っている節があるので本気ではリスペクトしていない。



 我が家は夫が①と④でわたしが③。日々の食卓において感謝が薄い傾向がある。

病気して食事療法を取り入れてからありがたみが分かるのでは遅いんだぞ、と思う。

男らしく 女らしく その人らしく

※注、わたしに差別意識はありませんがセンシティブな内容を好き勝手語っているので不快に思われたらごめんなさい。何かを決めつけたり誰かの行動を制限させたいといった意図は無く、どのようなアイデンティティでも尊重されていくことを望んでいます。




基本的にこの世には「男」と「女」と「どっちも」しかいないと思っています。

性別と言うのは「出生時に生物学的な判別をされたとする記号」。どっちもはその両方の特性を持っている人。先天的な特徴としてはどんな方でも必ずどれかに当てはまるのではないでしょうか。


後天的に外科的処置で性別を変更する方もいますがその場合は希望した方に入ると考えています。性自認と違って性別が「どちらでもない」という人体は難しく思います。



わたしは誰が誰を愛そうと全く自由だと思うし、いい意味でそこまで興味がありません。

 


LGBT”の運動を知った時、とっても応援したい、と思ったのと同時にそもそもそれを特別視することに大きな違和感がありました。


これはあくまで個人的な意見ですが「同性愛」が差別される世の中ならば、よっぽど「少女性愛」の方がカミングアウトしてもらわないと困るし脚フェチも尻フェチもカミングアウト、制服フェチも巨乳フェチも貧乳フェチもしてもらわないと困る。「だってそういう目で見るんでしょ?(実際どうかは関係ない)」って。『性別』と『性自認』と『性的嗜好』をごっちゃにしているようで何か座りが悪くて。そして「法に抵触しない限りお互い好きにやりましょうよ」と言いたくなるのです。だって別に目の前でイチャイチャしてる訳じゃないし、結婚出産云々はもっともっと先にある話だし不妊の事を勘定に入れたらもはや性別は関係ない。差別があるのは事実だけど「気持ち悪い」と言われなきゃいけない実害のある人達は絶対に彼らではないと思うのです。

 

 

性同一性障害、というのも『障害』と呼ぶことで救われている人たちがいるようだから良いのかも知らないけれど、当たり前の個性として受け入れられたらいいのにと思います。


ただ、わたし自身は性別関係なくオシャレじゃない人が苦手なのでみんな自分に似合うようにオシャレしてほしいな、とは思います。宴会芸でふざけて女装する人がいるけどそんな風に見えてしまう方がたまにいて、街中ですれ違うと若干ビックリしてしまう。(本当に余計なお世話だしただのジャッジなのですが)本人が好きで気に入っているならあれなのだけどそこは多分ずっと気になってしまうだろうなと思います。決してジロジロ見たり後ろ指さしたりはしません。でも機会があるならお手伝いしたい。

 


わたしが変わっているのか「わたしは女なんだから!」みたいに強い性自認を持つ人を見ると若干引いてしまいます。わたしの体は女だけれど時には女として見れない人もいるだろうし女性の扱いを分からない無知識な人も沢山いらっしゃる。男の人の服や嗜好品も素敵だし、内面的にも男性的な側面が必要な場面もある。女装も男装も悪ではないし、体と心の性が一致していても見た目では「どちらだろう?」となってしまう人もいます。思ったように扱われない事に怒るのは意識過剰な時があります。ジェンダー云々ではなくそのせいで苦手意識を抱かせてしまう場面もあるのでは?と思ったりします。



タイでは性別と性自認性的嗜好を組み合わせ11にカテゴライズしているそうです。[体は男性で性自認は女性で女装]をしている、けれど性的嗜好は[性自認が男性の男装をした女性]が好み、とか。



偏見や差別はされた側しか分かりません。だから○○ハラスメントという言葉が増えるのは語る上でとても便利に思います。ただいじめ問題同様、寄り添いすぎて被害者が加害者へ転換してしまう可能性もこっそり知っていなければとも思います。真摯にみんなで取り組んで行くためにも当事者、第三者全体の意識改革が必要なんだろうなあと思っています。


もっと知りたい、力になれたら、と思って近付いてもそのこと自体を「差別だ」と言ってしまったら話が進みません。じゃあそっとしておこう、と距離をとったらまたそれも「差別」になりかねない。過敏になる事で壁が出来ることがあります。被差別者にとって勇気を持って開いていける場がLGBTイベントなのかなと思います。



また、

Q(クエスチョン:性自認がわからない、無い)

A(アセクシャル:性的欲求が無い)

X(エックス:性自認が男女を行き来する)


といった方々もいらしてそれぞれに『みんなと違う辛さ』があると聴きます。全くもってこちらも個性の範疇な気がしてしまうのだけど辛さはとってもわかります。なにしろわたし自身が非常にQAX寄りなのです。わたしが若者のときはこのようなカテゴリーが無く、性自認性的嗜好について語る機会にも恵まれないまま、周囲からは当たり前のように女性として扱われ「頑張ってそれなりに」年齢を重ねてきました。おいそれと向き合えないけれど似たような方がいる、いて良い、と知っただけで救われるような気持ちがしたのを覚えています。



男性も女性も体に適した運動や食事をしなければ発育的に心配ですし、本人の認識がどうであれ女性の体で隙のある格好をしては防犯的に問題があります。

内面的にどうか、ということも大切ですがある程度教育の過程では「男らしく」「女らしく」は必要だと個人的に思います。でもそこに「あなたらしく」も入れてくれたらもっと素敵な気がしています。


そして


それは差別に関係なく私達全員が望む社会な気がします。