じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

愛の感じ方② 共同体感覚

共同体感覚ってアドラー心理学の言葉で、平たく言うと「わたしはみんなの中の一人です」って思うことを言うらしいです。

 


会社が潰れそうな時に「早く辞めよう。」と言うのか、黙って「みんなが路頭に迷わないためにできることはなんだ?」と思えるかでだいぶ幸福度が変わるよね、と。

 

 

でも自分から人のために何かするのは難しいし、ジャッジがあったらなおさら。


逆に元気はあるけどジャッジがきつい人は共同体感覚だ、と言いながら実態は同調圧力という「コントロール(誘導)」になってしまって出来ない人を排除しだしたり。

 



 

街中や電車の中でイライラしたり不安になったら

 

『ここにいるの、みんな知ってる人。』

 

って思ってみると、不思議とホッとしませんか?

 

赤の他人で服が鬼ダサくても機嫌悪そうでも、[喋ったことない同級生][お母さんの友達]と勝手に思ってみる。

すると「別にこの子はそいうキャラじゃないし」とか「なんか今日は機嫌悪いんだね」って思えてきて、不思議と自分も許されてる気持ちになってくる。嘘なのに。


そういうごっこをしていると人とつながるレッスンになるそうで。


誰でも知らない人は緊張するけれど「怖くない」「敵じゃない」が始まり。なんだ大丈夫じゃん、を感じていれば穏やかになれる。優しくなれる。

そしてその中で自分自身が自分をジャッジしてしているものにも気付けそうな気がします。

 


 

③につづく。

愛の感じ方① ジャッジメント

人を裁く、ということを「ジャッジメント」というのだって。それを減らしたほうが生きやすいのだって。



ジャッジとは

 

あれは良い

これはだめ

 

ということ。思うこと。

 

ふつうじゃないの?あたりまえじゃないの?

世の中ってそうやってできてるし、そうやって習うし、それに司法国家は悪いことしたら捕まるよね?


それで間違ってないのだけど。

だけど。。。

 

 

仮に気になる人がいて、その人とあなたは同じ道を歩んで生きてきていなくてあなたの常識が他の人には非常識になることが(逆も)ある。それはどうしてもそう。世間的にとか法律では、で片付けられない時がある。

 

でね、

 

何かしちゃったことが「初めて」なのか「たまたま」なのか「理由があって」なのか「習慣としていっつも」なのかは確認しないかぎり分からなくて。

 

何かしちゃったことが「他の人の迷惑」になるのか「将来大変」になるのか「自分以外の人には問題ない」のかも確認しなきゃ分からなくて。


でも、いっぺん「わたしとは違う悪い人だ」と思ったらそこがゴールになってしまう。



円滑なコミュニケーションには

 

 あなたが何を感じたか と

なぜそう感じたか   と

相手の目的はなにか  と

それを回避する方法  は


 

を切り離して考えないといけなくて、そこに善悪を持ってきたら答えが見えなくなることが多い。


 

正しい枠に入る人ばかりじゃないし、見えないところで何があったのかは分からない。自分が知らぬ間に枠から外れることだってある。トラブルや時代の流れで突然その枠自体が形を変えてしまうこともある。ジャッジがきついと人に寄り添えないだけでなく、そういう時に対応できない。



人に対しても自分に対してもジャッジは少ない方が軽やかに生きられる。

「あんな人は嫌!」と思っていたら自分もなっていた、という時、ジャッジがきつい人は自分を許せず病んでしまう。

 

 

そういう考え方もあるんですよ、というお話。



 

②につづく。

わたしの思う


①調理ができる

②料理ができる

③食事が作れる

④料理はできない

 

は、

 

 

①調理ができる

切ったり、焼いたり、煮たりができる。

 

②料理ができる

必要な材料を選んで買ってきて、カレーやパスタやサラダなどの料理が作れる。

 

③食事が作れる

食材の準備、栄養や彩りのバランスを考えた『献立』を組むことができる上にそれらを同時進行でタイミング良く調理し、配膳する事が出来る。

 

 

④料理はできない

食べる人の好みに合わせ、ある程度バランスの良いラインナップで買って来ることができる。

 

 

 

①の人は「料理ができないわけじゃない」といいがちで、やらせてみれば分かるけどしょっぱなからキノコは洗うのか、キャベツはどう切るかなどいちいち聞いていたりする。主に出来合いの市販ソースを使った味付けで予算は度外視のことが多い。

 

②の人にありがちな「料理?作れるよ!」は1品しか出てこない(肉を焼いて終わり、味付け卵のみ、など)。もしくはチグハグ、単一な献立(サンドイッチとお味噌汁、唐揚げと鳥肉のサラダなど)。①よりは手際がよく味も安定しているけど、魚のつみれには魚の出汁を使わないなどといった出汁と具のバランスや一方が味噌味なら一方は醤油味にするなどとといったメインとサイドのコントラストが考えられない、というか知らない。

仮に主婦でもあまり料理しなくなると献立のセンスがおかしくなるし料理していても精神的に疲弊してくると陥る。



③の人は取り立てて料理ができることをアピールしない。本人曰く特別熱心でなくてもなんだかんだ気に入りのレシピ本があったり、無自覚ながらTVや外食で定期的に情報収集している。過去にある程度は苦労して習得しており、食事で一番肝心なのは食べる人の満足度だと心得ている。手間ばかりかかってコスパも味も良くないようなメニューは絶対に作らない。出来上がっても美味しくなかったら出さない、くらいの潔さがある。

 

 

④の人は長い実家暮らしでやってくれる人がいるのか、とりたてて使命感はない。食べることは好きな場合が多いが市販の味付けに慣れているために高級品などの繊細な味の違いに気がつきにくい。手作りでは薄味に感じて満足しない。金銭に余裕があるかコストの計算ができない。出来る人間とは「単純な技術の差」だけだと思っている節があるので本気ではリスペクトしていない。



 我が家は夫が①と④でわたしが③。日々の食卓において感謝が薄い傾向がある。

病気して食事療法を取り入れてからありがたみが分かるのでは遅いんだぞ、と思う。

男らしく 女らしく その人らしく

※注、わたしに差別意識はありませんがセンシティブな内容を好き勝手語っているので不快に思われたらごめんなさい。何かを決めつけたり誰かの行動を制限させたいといった意図は無く、どのようなアイデンティティでも尊重されていくことを望んでいます。




基本的にこの世には「男」と「女」と「どっちも」しかいないと思っています。

性別と言うのは「出生時に生物学的な判別をされたとする記号」。どっちもはその両方の特性を持っている人。先天的な特徴としてはどんな方でも必ずどれかに当てはまるのではないでしょうか。


後天的に外科的処置で性別を変更する方もいますがその場合は希望した方に入ると考えています。性自認と違って性別が「どちらでもない」という人体は難しく思います。



わたしは誰が誰を愛そうと全く自由だと思うし、いい意味でそこまで興味がありません。

 


LGBT”の運動を知った時、とっても応援したい、と思ったのと同時にそもそもそれを特別視することに大きな違和感がありました。


これはあくまで個人的な意見ですが「同性愛」が差別される世の中ならば、よっぽど「少女性愛」の方がカミングアウトしてもらわないと困るし脚フェチも尻フェチもカミングアウト、制服フェチも巨乳フェチも貧乳フェチもしてもらわないと困る。「だってそういう目で見るんでしょ?(実際どうかは関係ない)」って。『性別』と『性自認』と『性的嗜好』をごっちゃにしているようで何か座りが悪くて。そして「法に抵触しない限りお互い好きにやりましょうよ」と言いたくなるのです。だって別に目の前でイチャイチャしてる訳じゃないし、結婚出産云々はもっともっと先にある話だし不妊の事を勘定に入れたらもはや性別は関係ない。差別があるのは事実だけど「気持ち悪い」と言われなきゃいけない実害のある人達は絶対に彼らではないと思うのです。

 

 

性同一性障害、というのも『障害』と呼ぶことで救われている人たちがいるようだから良いのかも知らないけれど、当たり前の個性として受け入れられたらいいのにと思います。


ただ、わたし自身は性別関係なくオシャレじゃない人が苦手なのでみんな自分に似合うようにオシャレしてほしいな、とは思います。宴会芸でふざけて女装する人がいるけどそんな風に見えてしまう方がたまにいて、街中ですれ違うと若干ビックリしてしまう。(本当に余計なお世話だしただのジャッジなのですが)本人が好きで気に入っているならあれなのだけどそこは多分ずっと気になってしまうだろうなと思います。決してジロジロ見たり後ろ指さしたりはしません。でも機会があるならお手伝いしたい。

 


わたしが変わっているのか「わたしは女なんだから!」みたいに強い性自認を持つ人を見ると若干引いてしまいます。わたしの体は女だけれど時には女として見れない人もいるだろうし女性の扱いを分からない無知識な人も沢山いらっしゃる。男の人の服や嗜好品も素敵だし、内面的にも男性的な側面が必要な場面もある。女装も男装も悪ではないし、体と心の性が一致していても見た目では「どちらだろう?」となってしまう人もいます。思ったように扱われない事に怒るのは意識過剰な時があります。ジェンダー云々ではなくそのせいで苦手意識を抱かせてしまう場面もあるのでは?と思ったりします。



タイでは性別と性自認性的嗜好を組み合わせ11にカテゴライズしているそうです。[体は男性で性自認は女性で女装]をしている、けれど性的嗜好は[性自認が男性の男装をした女性]が好み、とか。



偏見や差別はされた側しか分かりません。だから○○ハラスメントという言葉が増えるのは語る上でとても便利に思います。ただいじめ問題同様、寄り添いすぎて被害者が加害者へ転換してしまう可能性もこっそり知っていなければとも思います。真摯にみんなで取り組んで行くためにも当事者、第三者全体の意識改革が必要なんだろうなあと思っています。


もっと知りたい、力になれたら、と思って近付いてもそのこと自体を「差別だ」と言ってしまったら話が進みません。じゃあそっとしておこう、と距離をとったらまたそれも「差別」になりかねない。過敏になる事で壁が出来ることがあります。被差別者にとって勇気を持って開いていける場がLGBTイベントなのかなと思います。



また、

Q(クエスチョン:性自認がわからない、無い)

A(アセクシャル:性的欲求が無い)

X(エックス:性自認が男女を行き来する)


といった方々もいらしてそれぞれに『みんなと違う辛さ』があると聴きます。全くもってこちらも個性の範疇な気がしてしまうのだけど辛さはとってもわかります。なにしろわたし自身が非常にQAX寄りなのです。わたしが若者のときはこのようなカテゴリーが無く、性自認性的嗜好について語る機会にも恵まれないまま、周囲からは当たり前のように女性として扱われ「頑張ってそれなりに」年齢を重ねてきました。おいそれと向き合えないけれど似たような方がいる、いて良い、と知っただけで救われるような気持ちがしたのを覚えています。



男性も女性も体に適した運動や食事をしなければ発育的に心配ですし、本人の認識がどうであれ女性の体で隙のある格好をしては防犯的に問題があります。

内面的にどうか、ということも大切ですがある程度教育の過程では「男らしく」「女らしく」は必要だと個人的に思います。でもそこに「あなたらしく」も入れてくれたらもっと素敵な気がしています。


そして


それは差別に関係なく私達全員が望む社会な気がします。

いけない人妻

 ※こないだ冗談でFBにライブ投稿した官能小説(?)をリライトしました。こういうの男性誌で単発ものを2、3回読んだ程度の知識ですのであしからず笑



 

 

・・・・・・・・カップラーメン食べたい。今。

 

深夜、23時をとっくに過ぎていた。

何か不満がある訳ではない。代わり映えはしなくとも今日も充実した一日を過ごした。一日のうちに一日分の家事が終わらないのは毎度のことなのだから潔く諦めて後は床に入ればいいだけ。もう体は弛緩し始めている。

ただ・・・ほんの少しだけ満たされない、フリをしたいだけ。

 

転勤で引っ越して部屋が増えたことをきっかけに夫とは寝室を別にしている。廊下の先からは威勢の良いイビキが響いている。今日は涼しい風が吹いて過ごしやすい。気持ちよさそうね、と微笑する。リビングの隣では子供たちが寝ている。じゅんこが静かに過ごせるのは夜くらいなのだ。

 

こんな夜に寝てしまうのはなんだか勿体ない気がした。どうせ夜が更ければ末の子に夜泣きで起こされるのだから。。。

パソコンに向かってブログを更新しながら逡巡している姿をもう一人の純子が見ている。憂いを帯びた目を伏せて気に入りの椅子にもたれる唇や首筋や二の腕に温かな匂いを纏っていた。小さく柔らかい指先でひじ掛けの先を愛撫する。物欲しげなしぐさをわざとしておいて、バカみたいねと、一人はにかむ。

 

自分の中のもう一人が言う。

(きちんと自分を満たしなよ。)

(そのまま今日は寝てしまうの?)

(もっとあなたの顔を見たいな。)

(昼とは違う顔を。)

 

ぼんやりとした頭でそれを聞いていると、体の奥が鈍く熱を持っていった。

ゆっくりと思考がとろけていく。目の前にありもしないスープの香りを幻覚する。おもむろに立ち上がりキッチンへ向かう。

 

空き箱を利用した食品ストッカーから「それ」を取り出した。なぜそうしているのか自分ではわからない。

じゅんこは迷いながらもゆるりと電気ケトルに水を注ぎ、自らそのボタンに手をかけた。

「カチッ」

ああ・・・いけない! 我に返った。

こんなとこで何をしているのだろう。しかもこんな時間に。ダメダメ、こんな誘惑に負けるなんてわたしらしくない。いつものわたしじゃない。

まだ引き返せる。・・・けれど確実に体は受け入れる時を待っていた。

 

そうだ、アマニ入りのパンがある。あれを軽く焼いて口に含めば紛れるかも知れない。

 

 

こんがり焼けたパンを小さな口に頬張った。 瞬間、無意識に冷蔵庫に手が伸びる。白くふくよかな手にはバジルペーストとバターとスプーンが握られていた。

 

いやだ、わたし何をしているの?これじゃあ、まるで・・・。

 

気持ちとは裏腹にじゅんこはそれらをパンの残りへ塗りたくり、気が付くともう、跡形も無くなっていた。

リビングへ戻るとテーブルの上にはペアのカップと皿が。ついさっき夫と和菓子を食べたばかりなのに・・・。

 

お湯が沸いた。

 

いけないと思えば思うほど囚われるのが人の常というもの。

 

また、もう一人が言う

(本当は飢えているんだよね、心も体も。)

 

眠い、寝たい、でもほんの少しだけ今日は

・・・いけないことをしてみたい。

 

ケトルがしゃくるような口で見つめている。可哀想なことに、気を紛らわすために食べたパンは余計にじゅんこを刺激した。

時計は12時を過ぎた。 さっきのスプーンでバターを舐めると少し落ち着くようだ。もう大丈夫かもしれないとふと、PCの脇に目をやった。影に隠した「それ」と目が合った。

 

 

津軽 帆立貝焼き味噌風》

 

 

ああ・・・見なければ良かったのに。ピンクに塗った短い爪を立てて底のビニールを破く。めくりあげた蓋から覗く麺に熱い湯を注いでしまうのか。。。

 

ごめんなさい、わたし我慢ができない。

 

どんな謝罪も言い訳も納得がいく道理はないのに胸の奥から突き上げるような衝動に成すすべは無い。湯冷めした肌が甘く香る。振り乱した髪はまだほんの少し濡れていた。

 

キッチンからケトルを奪うように持ってきて勢いよく熱いものを注ぎ入れた。

その口から立ち上る湯気に眉を湿らせるじゅんこはすでに恍惚としている。

 

でも、まだ、引き返せる・・・。

それに、ほんの少し、一口だっていい。そう、残してしまえばいい。

 

そう思った次の瞬間。

 

衝撃が脳を貫いた。

 

なんてリアルな味噌と磯の香り!!!!!

 

ああ、もう引き返せないのね。こんな反則はダメよ・・・。

両手で顔を覆いながら首を振り、でも心は3分を待ちわびている。裏腹にすればするほど高ぶって行く。

 

(あなたの顔が見たいな。)

 

恐る恐る上気したカップに手を伸ばした。温かい。胸元へ引き寄せじりじりと蓋をめくる。こぼれたら火傷してしまう。本当は一気に剝がしたいのに・・・。

普段じゅんこが作る野菜ばかりのお味噌汁とは違う香りが、恥ずかしいくらいに辺りに満ちる。子供や主人に気付かれたらどうしよう、なんて言われるのかしら、どんな目で見られるのかしらと、思えば思うほどに興奮した。

 

フォークを浸してスープを飲む。

 

ああ!しびれるほどの旨み!これが帆立なのね!!港町に来たみたい!!

 

もう戻れない。罪の意識も忘れ、美味しさに目を白黒させながら間髪を入れずに麺がのどを伝っていく。シミはあるものの歳のわりにはまだまだ瑞々しいじゅんこの喉がこくりこくりと波打っていた。

 

 

秘密の夜は更けていく。

 

 

 

おわり


幸福についての考察③ 幸せになるために

幸福についての考察①②とリンクする内容です。

 

 

宗教、教育などを通じた生き方指南の多くは

 

・『秩序』を軸にすること

・社会的に有益な人材であること

・ルールを重んじること

・欠点を排除あるいは好転するよう努めること

 

➡「それによって愛される」

 

 

とするものと、

 

 

・『感情』を軸にすること

・他人の評価に依存しないこと

・自由にあるがままにいること

・自分にも他人にもそれを認めること

・善も悪も存在しえないことを知ること

 

➡「それによって周囲に愛が満ちる」

 

 

とするもの、の二極に還元される気がする。

そして昨今メンタルケアの分野が注目を受け急激に前者から後者へ価値観の移り変わりが起きているような印象がある。わたしは前者を「父(社会)的な教育」後者を「母(家庭)的な教育」と思っている。

 

古代、人々が共同体を形成する上で『秩序』やルールが生まれた。でもそれは人類の歴史全体で見たら実は期間限定的で物資の流通や金銭の概念が変革するこれからの世界はその枠組みが無くなって行く気がする。

よく考えると社会的通念よりも、ずっとずっと昔から人は存在していた。『感情』は生命の維持に必要な生理的欲求から派生している。人が生きる限りきっと変わらないし無くならない。生きやすい環境は心地よいし、生命維持に有益なものは美味しいし美しいし愛しい。そうでないものが不安や嫌悪を生むようにね。

 

『秩序』と『感情』どちらにフォーカスした方がより「幸福」を感じられるのかしら?

 

個人の中には昔から答えは出ていただろうけど、時代がそれを許可してこなかったのかも知れないね。

 

 

幸福についての考察②でも述べたのだけど、メディアデトックスのように現代人は

『IN』より『OUT』

『ON』より『OFF』

にフォーカスすることが大切に感じるの。

 

例えば、

 

『蓄える』よりも『シェアする』こと

『食べる』よりも『排出する』こと 

『集中する』よりも『脱力する』こと

『管理する』よりも『手放す』こと

『思考する』よりも『体感する』こと

 

陰陽のバランスみたいに偏りを無くすことでより感覚がクリアになる気がする。

ここが鈍ってしまうと危険も幸福も感じられない。『感情』や『体感』だけは他人には分からないことだから。どんなに人が羨ましがっても、わたしが望んでいないことは「幸福」と呼べない。物事に触れた時に何を感じるかをしっかり掴めなければ自分の「理想」も「希望」もきっと存在し得ない。

 

メンタルやスピリチュアル、ビジネスの話でよく出てくるのだけど、

「レストランに入っても何も頼まない人の所には食べ物は来ない、それを分からずに他のテーブルを羨ましがっていてはいけないよ。」

という話。上手く行っている人はまずその結果を希望している。目的(幸福)を達成する前には頼む(希望する)ということを知らないといけない。でも前提として自分が何を食べたら幸せを感じるか知らないと目的は達成しない。

 

感情を大切に、

今していること

食べているもの

見ているもの

着ているもの

聴こえているもの

会っている人 

 に、何を感じているか。

より多くのデータを集積して出た答えがあなた独自の「幸せ」の形だと思う。

 

好きなものは何ですか?

 

と聞かれて一瞬思考が停止したり「例えば何のジャンル?」って聞き返しちゃう人はもっと丁寧に日常を感じてみるといいかも。

 

ちなみにわたしは先日、生まれて初めて「カツ」が好物って知りました(笑)。それまではね、「特にないです。」とか「なんでも好きだし食べられます。」って言ってたの。お菓子やフルーツは良く食べるけど・・・って。食べに行くこと全くないのだけど、自分とお話しする中で、「そういえばカツ食べた時上がるわ」って気付いた。本当に不思議。まだまだ知らない自分に出会えるかも。

 

 

おわり

幸福についての考察② 欠乏の正体

幸福についての考察①とリンクする内容です。

 

前にホリエモンさんが「人の欲求は情報がつくる」とコラムで言っていたの。どういうことかと言うと、あれ欲しい、これ食べたい、は「あれ」や「これ」の情報がなければ生まれようがない感情だということ。

 

戦後、物のない時代に比べて日本はとっても豊富な物資に恵まれていると思う。だけど、「満ち足りているか」というとなかなか胸を張れない。

 

戦中、闇市の端っこで飢えていた子供たちも、

現代、就職が決らない新卒の子たちも、

「欠乏感」は同じようにあるはず。時代によって欲求が変わるというよりは

 

『何によって欠乏するのか』

 

が変わるのだとわたしは思う。

時代によって情報の開示が変化し訴求ポイントがずれるだけ。

 

幸福についての考察①でも触れたけれど情報があることによって、より欠乏していくのであれば情報化社会は人を飢えさせる文化とも言える。命があっても体があってもご飯があっても寝るところがあっても自分より恵まれた人がいる、それが大多数だと「思い込む」となかなか平穏ではいられない。皆が手の内を明かし合い、恥ずかしさや欠点を共有できるコミュニティーを持たないと知らない間に追い詰められる仕組みだと思う。これなら物理的、精神的欠乏感などいくらでもメディアが作り出せてしまう。不安もその一つ。胸糞の悪い事件もどんどん開示されるようになった。それらに思いを馳せている時間はわたしたちの平穏を脅かしてはいないかしら?答えの出ない問題に心をすり減らしてはいないかしら?

 

みんな気が付いていないけれど、携帯を見るとき、PCを開くとき、無意識に「なにか事件はあったかな?」「ムカつくことはないかな?」「自分を刺激するような嫌な人がいないかな?」「何か欲しくなるようなものはない?」って探してる。気が済んでもまた次がやってくる、それはもう中毒のよう。

 

海外のセレブは携帯やメディアを遠ざける「デトックス」をし始めたようよ。1週間から数か月、あらかじめ友達に伝えておいて携帯やPC、テレビをOFFにするんだって。人間の脳もデバイスと同じ。常にバックグラウンドで動いてる。限られた容量を何に使うのか自分でデザインしていく工夫ができたらもっと幸福感が増すような気がする。

刺激の強い情報には特に気を付けて行きたいものね。

 

 

 

➡幸福についての考察③につづく