じゅんこイズム ~詩とか怪文書~

私の隙間に住み着いたあれやこれやを綴ります。好いてくれたらうれしいですが嫌ってくれても良いのです。

幸福についての考察② 欠乏の正体

幸福についての考察①とリンクする内容です。

 

前にホリエモンさんが「人の欲求は情報がつくる」とコラムで言っていたの。どういうことかと言うと、あれ欲しい、これ食べたい、は「あれ」や「これ」の情報がなければ生まれようがない感情だということ。

 

戦後、物のない時代に比べて日本はとっても豊富な物資に恵まれていると思う。だけど、「満ち足りているか」というとなかなか胸を張れない。

 

戦中、闇市の端っこで飢えていた子供たちも、

現代、就職が決らない新卒の子たちも、

「欠乏感」は同じようにあるはず。時代によって欲求が変わるというよりは

 

『何によって欠乏するのか』

 

が変わるのだとわたしは思う。

時代によって情報の開示が変化し訴求ポイントがずれるだけ。

 

幸福についての考察①でも触れたけれど情報があることによって、より欠乏していくのであれば情報化社会は人を飢えさせる文化とも言える。命があっても体があってもご飯があっても寝るところがあっても自分より恵まれた人がいる、それが大多数だと「思い込む」となかなか平穏ではいられない。皆が手の内を明かし合い、恥ずかしさや欠点を共有できるコミュニティーを持たないと知らない間に追い詰められる仕組みだと思う。これなら物理的、精神的欠乏感などいくらでもメディアが作り出せてしまう。不安もその一つ。胸糞の悪い事件もどんどん開示されるようになった。それらに思いを馳せている時間はわたしたちの平穏を脅かしてはいないかしら?答えの出ない問題に心をすり減らしてはいないかしら?

 

みんな気が付いていないけれど、携帯を見るとき、PCを開くとき、無意識に「なにか事件はあったかな?」「ムカつくことはないかな?」「自分を刺激するような嫌な人がいないかな?」「何か欲しくなるようなものはない?」って探してる。気が済んでもまた次がやってくる、それはもう中毒のよう。

 

海外のセレブは携帯やメディアを遠ざける「デトックス」をし始めたようよ。1週間から数か月、あらかじめ友達に伝えておいて携帯やPC、テレビをOFFにするんだって。人間の脳もデバイスと同じ。常にバックグラウンドで動いてる。限られた容量を何に使うのか自分でデザインしていく工夫ができたらもっと幸福感が増すような気がする。

刺激の強い情報には特に気を付けて行きたいものね。

 

 

 

➡幸福についての考察③につづく

 

幸福についての考察①  「幸福度」

大事な大事な話をします。

 

「もっといい部屋に住みたいなあ」

「あんなふうなおしゃれなお店でご飯食べたいなあ」

「あの人みたいなお高い靴を履いたらいい気持ちだろうなあ」

 

連日テレビや雑誌、SNSで繰り広げられる【イケてるヶ原の戦い】。

 

いい光量で、いいアプリで、いいタイミングの、いい角度の、イケてる写真をうp。

誰でも一度は参加したことであろう。

 

かくてわたしもキラキラ系に憧れて背伸びした高いご飯を食べに行ったりしたもんです。

 

 

でも、もういいや。

 

 

あのね、結婚当初お金が無くて、子供もいて。オシャレスポットなんか行けなかったの。だからご飯もスイーツも手作りだった。わたし、調理科のある高校だったから調理は結構教わったんだけど(所属は服飾科)お菓子はほぼ独学で泣きながら何度もケーキを焼いた。焦げたり膨らまなかったりしてさ。それでも美味しいもの食べて優雅に過ごしたかったの。「あの人たち」みたいに。材料費もバカにならなかったけど兎に角しみったれたくなくてそんなにお金かけないでできることをし続けた。

 

ほしたらね、何年も経ったある日市販のケーキをいただいて「おいしくない」って思ったの。バターじゃない油脂の味、乳化剤などの添加物の味、膨張剤で作ったスポンジ、生乳じゃない生(?)クリーム。。。味が解るようになっちゃった。後で気付いたんだけどテキストが古いレシピ本だったからやってたことが結構本格的だったのね。

 

子どもが大きくなって来たら、もうその辺のお味じゃ満足しなくってちょっとこじゃれた店に行くようになってた。それは良い気持ちだったの。「わたし違いわかる。わたし今おしゃれ。」って。

 

でね、極め付けにSNSで見た「鼻血がでそうなほどおしゃれなホテルのアフタヌーンティー」に行ったわけ。一人5400円。もう、期待値はMAX。色とりどりのスイーツが3段重ねのお皿でやってきて、数えきれない紅茶の中からダージリンセカンドフラッシュを頼んで・・・ぱくっ

 

ん?

 

・・・は?

 

なにこれ?

 

 

ハンバーガーべちょべちょ、サーモン生臭い、いちじくカピカピ、チョコレートの装飾も見た目ばかりで美味しくない!シュクレと自家製のコンフィチュールは及第点。サービスも、隣の席とサーブ時の説明が違う、もう出涸らしのポットに永遠にさし湯してくるし、、、

 

同行した姉と鼻で笑って帰って来た。場所と値段と中身のクオリティーは必ずしも比例しないのね。味がわかったら二度と行かないはずなのにFBじゃ写真が撮りたいのか2度も3度もうpしてる人がいた。もっとましなお店知らないのかしら?

 

 

 

あれ?

 

 

 

憧れていたところに行ったはずなのにちっともハッピーじゃない。なんでだろう?

 

違いが分かれば分かる程「満足できる条件」が減って行く。

 

昔は満足してたものも、だんだん気持ちが薄れて行った。それはなぜ?

 

 

どんなに好きで満足していても、別の物が視界に入ったら試してみたくなる。

眼で見ちゃったら、聴いちゃったら、わたしたちはその瞬間から『比較』をするのじゃないかしら?そのことによって知らない間に既存のありがたみや新鮮さが剥奪される。

もしかして、「イケてるヶ原の戦い」はいたずらに欲求を刺激し合ってお互い欠乏するのがゴールなのかしら。

 

 

海外に住んでお金があってホテルのディナー食べながら不機嫌な人もいる、

小さなアパートに住んで大好きな駄菓子でニコニコしてる人もいる。

 

人生に勝ち負けなんかないけれど、幸せな人が最強だしゴールだと思うの。だから幸福度って、「何を持ってるか」じゃなくて「何を感じてるか」かも知れない。勝ち負けで言うなら生きている間、『何分笑っていられたか』ってことじゃないかしら。

 

 

それに気付けないと良くない方へエスカレートをしてしまうみたい。

「今」より良い生活を目指すのは決して悪くない。でもそれが「今」の否定になっていたら幸福度は低い。

 

沢山の良いものを知ること、経験することがステイタスだった。でもそれは幸福度と関係なかった。むしろそれらの情報はわたしの中に「そうじゃない」ものを増やした。無駄と言えば無駄だけど、無駄をしたから気付けたこと。宇多田ヒカルちゃんの歌にあったよ、

 

『足りないくらいでいいんです 楽しみは少しずつ』(2時間だけのバカンス)

 

実感なく言ってもただの美徳や我慢になるけれど、わたしにとってはもう、それが答え。無理をせずに肩の力を抜いて必要なタイミングで素敵なものに出会いたい。

 

40手前。折り返し地点が来ているのを感じる。

 

 

 

➡次回 幸福についての考察②  へつづく

その先の世界

獲得しない人々は「今見えている扉がゴールではない」こと、を知る由もないのだ。

 

彼女がいない人は「彼女がほしい」というが、

その先の方が長い事を知らない。

 

結婚をしていない人は「結婚したい」というが、

その先の方が長いことを知らない。

 

稼ぎが少ない人は「稼げるようになりたい」というが、

その先の方が長い事を知らない。

 

外国語を喋れない人は「喋れるようになりたい」というが、

その先の方が長い事を知らない。

 

自分で着物を着られない人は「着物を着られるようになりたい」というが、

その先の方が長い事を知らない。

 

 

 

 

まだその先に見たこともない世界と新たな扉が必ずわたしたちを待っている。

きっと、

その扉が重ければ重いほど

 

 

 

世界は広がって行く。

 

 

(すいません、わたしもだいたい知りません)

 

 

 

微笑合掌

cantabile(カンタービレ)

好き、愛してる、感謝

いつか依存にならないかしら?

思って考えた。

 

 

 

今日、何の心配もなくたって

 

明日、重い病気に気付くかもしれない

明日、大きな事故に合うかもしれない

 

今、

手にできるものがあるなら、

経験・体感できるものがあるなら、

掴んでおいた方がきっといい。

 

その一方で、

もしも明日、息絶えることがあったとしても

”終わっちゃった♡てへぺろ♡”

と言えるくらいの身軽さを持つこと。

 

悲しさ

苦しさ

執着

恨み

「あの人はどう思うだろうか」 という他者への憂い

「なんで私が?」 という不毛な問い

・・・から、解き放たれること。

 

 

 それが本当に「素敵だ」と思う。

それが本当の「自由だ」と思う。

 

 

少ないけど、いろんな方の「物語」を見て来た。

 

死に方は生き方。

 

わたしよ、

 

歌うように生き

 

歌うように去れ

 

きっとその姿は後進の心に

 

歌のように、残る。

 

 

 

「志なかば」という言葉は

残った人が使えるようにそっと置いて行けたらいいね。

 

 

 

微笑合掌

 

※cantabile(カンタービレ)はイタリア語。ピアノなどの楽譜で「歌うように(演奏する)」という意味で使われます。中学時代、合唱部の先生が発行していたお手紙の題号でした。ちなみに合掌部は無かった。

純粋な黒

全く持って純粋な黒などと言うものは

この世にはないんじゃないかしら。

漆黒という言葉があるでしょう?

漆器は朱の下塗りをして、何度も何度も塗っては磨き、を繰り返して

やっと美しい黒ができるの。

喪の着物も最初に赤、もしくは藍で染めた上に黒を重ねて

やっと美しい黒にするの。

お洋服も黒に染めるのはなかなか難しくて2回くらいは染料を使わないといけないのよね。

 

夜の闇だって、カーテンを引いた部屋だって、私たちの目はすぐに慣れてしまって、

動く影、僅かな光、あろうものなら目ざとく掴んでしまう。

 

なったことないのだけど全盲の方はどうなのかしら?

景色が見えなくても瞼の裏にいろんな色を隠していたりしないかしら。

 

行ったことないのだけどブラックホールって本当に「黒」なのかしら。

私たちの目は光を見続けられないように闇も見続けられないのじゃないかしら。

 

 

 

どうせ移ろうものならば、

触れたら濁ってしまいそうな白よりも

なんでも飲み込んで艶を増す黒でありたい

 

真っ白く照らして眼を眩ませる光よりも

いつのまにか忍び寄って包んでしまう闇でありたい

 

 

 

純粋に

そう思う。

 

 

 

 

微笑合掌

 

【みんなと同じことができない】 という素晴らしさ

(今朝の泣いちゃいそうなくらい素敵な気づきのお話です。)

 

 

朝 起きれない

必ず 遅刻する

期限が守れない

計算ができない

早く走れない

沢山食べられない

すぐ体調を崩す

身体にハンディキャップがある

顔や体にコンプレックスがある

掃除ができない

お風呂が嫌い

ゴミが捨てられない

コミュニケーションができない

節約ができない

 

 

 

とか。

 

とか。

 

 

 

あのね。今朝、

 

パンドラの匣」を開けたの。

 

 

数か月前にお菓子を作るために生クリームを買って。私にとっては贅沢品なのね。でも忙しくなってしまって賞味期限が過ぎてしまったわけ。でも高いお金(たかだか400円くらいです 笑)を出して買ったから捨てられないのと、そのまんま開けないで処分すると焼却の際迷惑になるから何かに染みこませないといけないの(という良識のある人だけに課せられたルールがある)。開けた時にピンクのカビが生えてたらいやだなあ・・・と放置しつつ、燃えるごみの日に限って忘れちゃって「あ、また忘れた」をずっと繰り返していたわけ。

 

 

朝、冷蔵庫の中がごちゃごちゃしていたから整理したら。あら。

奥の方からすっかり忘れてた生クリーム。賞味期限17・2・22。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ん?

 

 

白いよ?

もしかしてサワークリームとかバターとかになっててくれないかしら?

持つとなんだか重い。匂いも臭くない。

 

 

スプーンでおそるおそる一口。

味はしない。甘くもない。サワークリームに近いけど美味しくはない。

水分が少し残ってたからそれも一口。

こっちは甘くてミルクの匂いがほんのりして美味しかった。

 

暫くしてなんとなくへんな味を感じたので残っていた水を捨てて・・・・

 

また放置してみた (笑)。もしかしたら、もうちょいで美味しくなるかもしれない。もしこれが上手く行ったらみんなにシェアしよう!

 

 

 

 

 

わたしたちの生活はこんな「うっかり」や「恐いもの知らず」のおかげで発展したこともきっとたくさんあるよね。

 

 

あれ?・・・いやだ、みんなが同じだったら知識も文化もちっとも広がらないじゃない。良く考えて導き出すだけでは越えられないことがたくさんあって、時には命がけじゃなくちゃデータのとれないこともあって、いつどこでそれが見つかるかなんて誰にも解らない。

 

 

【みんなのために命を投げ出すこと】

は勇気や感動や生きる意味を教えてくれるかもしれない。

 

でも、

 

【餅をのどに詰まらせた人】

は「え?そんな危険があるんだ!!」とリスクを教えてくれる。

 

カッコいいとか悪いとか役に立つとか立たないとか社会的に規範かどうか、そのこと自体はすべて同等に意味があるのに受け取れないからこそジャッジしてしまうのかも知れない。

 

あのときAを選んでいたら・・・Bを選んでしまったからわたしは・・・

 

 

ほんとうにそうなのかしら?

 

 

もしかしたら、誰かが選ばない分をみんなで手分けしてやっているのじゃないかしら。一人が全部の道を選ぶことはできないから、こんなことあったよ、あんなことあったよ、って何気ない事をシェアすることってほんとはすごい事なのかも知れない。それが大きなことかすごいことかどうかは【受け取る人】が決めている。人は分かりやすい事ばかりに群がってしまうけど目に見えている「それ」だけが価値ではないはず。

 

 

それが合っているなら、きっと自分で自分の意味を探さなくてもいい。人が勝手に気付けばいいし意味なんか無くても構わない。わたしがいることが、この生き方をしている人間がいるという時点で意味をなしている。人を見て「あら?」「おや?」と思ったときに『どのような意味を感じられるか』だけ研ぎ澄まして行けたら、いつでもどこでも何かが無くても、

 

 

 

 

 

幸福になれる気がした。

 

 

 

 

 

(直後に息子を叱りましたが 爆)

 

微笑合掌

【匂い】

かなしみ と くるしみ

いらだち と わがまま

さよなら と こうかい

よこしま と ながしめ

こころね と うたかた

まどろみ と  そねみ

 

 

逢いたくて 逢いたくて

それでも  逢いたくて

 

 

寂しくて  寂しくて

それでも  寂しくて

 


こいしくて

はかなくて

 


今日の終わりに 思い巡らす

 


好きですと云われたら

古傷が疼(うず)きだす

 

 

誰でもひとつくらい

済ましていない  恋がある

 

誰でもひとつくらい

ゆるんだ ほころびを 持っている

 

 

夜闇のように

煙交じりの吐息のように

しらない内に染みてくるのは匂い

 

 

 

カサカサに乾いた このほころびに